第三部
私は朝の光が嫌い。すべてを照らしてしまうから
私は夜の闇が嫌い。すべてを隠してしまうから
私は私の目が嫌い。見たくない世界が見えてしまうから
だから、もっと世界がきれいだったらいいのに
(マーガティの詩集『Never』より)
1 作戦立案
ルーベルとエルヴィンの騒動から一週間が経過した、革新世紀(E・A)七二年三月二一日の正午過ぎ。
昼食を終えたリッカとルーベルが部屋で寛いでいると、とんとんとノックの音がした。
「はい、どなたですか?」
リッカがドアを開けると、児童福祉施設の廊下には少々不釣り合いな、スーツ姿の男性が立っていた。
「やあ、元気そうだね」
にこやかに手を上げた男性は『世界平和条約機構(W・P・U)』大使、ノーマン・アドルソン。ヴァレオンの戦いの後、離れ離れになっていたリッカとルーベルを引き合わせる手引きをしてくれた、二人にとっては恩人と呼ぶべき相手だった。
「ノーマンさん、こんにちは」
「マレアから報告は聞いているよ、よくやってくれているみたいだね。……入ってもいいかな?」
「はい、どうぞ。ルー、ノーマンさんですよ」
ノーマンを部屋に入れる。
「……こんにちは」
「こんにちは。ルーベルさんは、その後はどうですか?」
「大丈夫です」
「そうかい」
ルーベルの愛葬のない受け答えに、ノーマンが微笑みを返す。
「ずいぶんきれいにしているね」
部屋の様子を見たノーマンが、感心した様子でそう言った。もともと物が少ないことも確かだが、確かに室内はしっかりと整頓されている。
「散らかっているのは落ち着かないんです。その、物をきちんと整理しておく習慣がついているので……」
リッカの受け答えは少し歯切れが悪い。訓練時代に、迅速な作戦行動のために物はきちんと片づけるよう徹底して仕込まれた、その名残だった。
「部屋がきれいなのはいいことだよ」
気まずげなリッカを気遣うと、ノーマンはベッドに座ったままのルーベルに近寄り、ルーベルが抱いていたクマのぬいぐるみ(マーヤ)の頭をぽんぽんと撫でた。
「ぬいぐるみも、大切にしているみたいだね」
ノーマンはにこりと笑った。
「あの、今日はなにかご用ですか?」
「いや、特には。様子を見せてもらおうと思ってね。でもよかったよ、僕が思っていたより、ずっとしっかりやってくれているみたいだから」
「そんなこと」
先日も、同じ施設内の少年と諍いを起こしたばかりなのに。リッカが顔を伏せると、それも知っているよ、と言いたげな顔をしてノーマンが言った。
「みんな、辛い境遇を過ごしてきた子たちばかりだからね。やっぱり、自分の気持ちを抱えきれない子も少なくない。他の施設でも、ケンカや言い争いがないわけじゃないよ。でも、みんなちゃんとここにいてくれている。僕は、まずはそれが大事だと思ってる」
少しくらいなら、ケンカだってお互いのことを知るきっかけにもなるしね。そう付け加えて、人の好い笑みを浮かべるノーマンである。
「ところで、ここでの生活で不便なことや困っていることはなにかないかな? 必要なものがあれば、いつでも支援はできるのだけど」
「わたしは特には。ルーベルも大丈夫だと思います」
ルーベルの肩に手を置いてリッカが答えると、ルーベルもこくりと頷いた。
「そうなのかい。じゃあ、なにかあったら遠慮せずに保護司に相談すること、いいね?」
むしろもっとわがままを言えと言いたげなノーマンだった。
「はい」
「じゃあ僕はそろそろ――」
と、ノーマンが部屋を出ていこうとした、その時だった。
「ノーマン様、こちらでしたか」
慌ただしい足音とともにやってきたボディガード風の男が廊下からノーマンを呼んだ。
「どうした?」
「今、連絡があったのですが……」
ぼそぼそと耳打ちをする。
――フォレア村の少年を移送していたバスが聖帝派にジャックされたそうです。移送に関わっていた職員は殺され、少年は人質に取られたとの報告です。
――なんだと、本当か?
――はい、聖帝派は人質解放の条件として、選挙の無期限延期と収監されている軍関係者の釈放を要求してきています。
――とても呑める条件じゃないな。人質救出作戦は?
――『平和維持軍(サルバトール)』がすでに現場に向かっていますが、聖帝派は走行不能になったバスに人質を取って立てこもっているようです。爆薬が運び込まれた形跡もあり、自爆覚悟の犯行ではないかと。
フォレア村の生き残りの男の子が人質にされた? 意図せず聞き取ってしまった二人の会話を理解した瞬間、手を置いたルーベルの肩からも緊張が伝わってきた。
「あの、ノーマンさん。今の話は本当なんですか?」
二人の会話を聞いてしまったリッカは、話に割り込むように声をかけた。
「リッカさん? 君、今の、聞こえて――?」
ノーマンが驚いて、すぐにそうだったと理解した顔になる。普通ならばとても聞こえない小声での会話でも、魔法強化兵(マギナ)として強化された聴力を持つリッカとルーベルにはしっかりと聞こえていた。
「……そういえばそうだったな」
失念していた、とノーマンが額に手を当てた。
「ノーマンさん」
「ああ、『世界平和条約機構(W・P・U)』の情報だ、事実だろうね」
聞かれた以上は隠さない方がいいと考えたのか、ノーマンは正直に認めた。ノーマンはすぐにボディガード風の男に向き直り、
「君は先に車に戻って、詳しい状況の確認をしておいてくれ。僕もすぐに戻る」
「は? しかしそれは」
「いいね」
「……了解しました」
半ば無理やりに男を外に出した後、ノーマンが部屋のドアを閉める。
「聞こえたなら、その通りだよ。フォレア村の事件を生き残ったたった一人の少年が人質にされた。本人が遠隔地での生活を希望してね。その移送が今日だったんだが、その途中を狙われたようだ」
ノーマンは重たげな声で言うと、深く息を吐いた。
「犯行グループは旧バラトルム軍の残党――自称バラトルム愛国戦線。我々が聖帝派と呼んでいる集団で、要求は選挙の無期延期とガエン政権の戦争犯罪にかかわった人物の釈放。現在は移送に使っていたバスに立てこもっているらしい。交渉期限は五日だ。――ああ、くそっ!」
ノーマンが頭をかきむしって声を荒げた。
その苛立ちを見るまでもなく、これが困難な人質救出作戦になることはリッカにも容易にわかる。犯行グループはおそらく自爆覚悟、要求が受け入れられないとなれば人質の殺害も厭わないだろう。この状況下で、バスに立てこもっている複数犯を遠距離から同時に、人質を危険にさらすことなく無力化するなどほぼ不可能だ。
「……あまり時間もないが、とにかく僕も出来ることをしないと。もう行くよ」
「時間がない? 期限は五日でも、交渉次第で引き延ばしなら――」
「事件収束まで五日はかからないよ。その前に強硬派が動く。彼らなら人質の生死は問わずにテロリストの無力化を優先するだろうね。掃討作戦を加速させるために旧バラトルム軍残党の非道を世間に見せつけることができると、むしろ、喜んで人質を見殺しにするかもしれない。そうしたいがためにわざと移送のスケジュールをもらして聖帝派をたぶらかした人間がいたとしても不思議じゃないくらいだよ。移送計画の失敗について融和政策派の責任を追及し、自分たちは残党狩りの大義名分を得る、一石二鳥さ」
「そんな……」
リッカは絶句した。
それはまるで、彼らが討ったガエン政権のようなやり口だと感じた。
「『世界平和条約機構(W・P・U)』も一枚岩じゃないからね。加盟国が増えて、組織が大きくなりすぎた。考え方の異なる複数の勢力が権力争いをしているのが実情だよ」
ノーマンは諦観の混じった声で言うと、じゃあ、と今度こそ部屋を出ていこうとする。
「待って下さい」
リッカは部屋を出ていこうとしたノーマンを呼び止めた。
「わたしに、なにか手伝えることはありませんか?」
「リッカさんが?」
「フォレア村のことは私も無関係ではありませんから。たった一人でも生き残った人がいるなら、守りたいです」
「……」
ガエン政権の戦争犯罪を解明する過程でおおよその事情を把握しているノーマンだから、フォレア村の虐殺を生き延びた少年に対してリッカが何らかの責任を感じているということはわかる。
だとしても、子供を戦場に送るなど、彼の立場としてはありえない。が――
「……ルーも」
きゅっと、ルーベルがリッカの服を掴んだ。
「ルーも、お手伝い、する」
「ルーベルさんまで」
ノーマンはもうあきれてものが言えないとばかりに天井を仰いだが、少女二人の真剣な眼差しを受け、表情を引き締めた。
「返事をする前に一つだけ聞かせてほしい。これで死んでも構わないなんて、そんなことを思っていないだろうね?」
「クラリーが残してくれた命です。粗末にしたら、向こうで叱られてしまいます」
ノーマンは長い長い沈黙の後、
「……わかった。絶対に死なないと約束してくれたら、後の責任は僕が取るよ。でも、作戦はあるのかい?」
「はい、私に考えがあります」
リッカは少年を救出するための作戦をノーマンに伝えた。
2 リュミエイラの作戦記録④ 転戦
革新世紀(E・A)七二年三月二一日。
潜伏していた森を離れた私は、ヴァレオンとは逆方向に進んだ。
きっと友軍はバラトルム各地に分散して、反撃の機会をうかがっている。おそらくは、地図にも載っていないような小さな村や集落を利用しているだろう。敵軍が駐留している大きな街を避けて友軍を探すべきだ。
「まずは服の調達かな……?」
小枝に引っ掛かってほつれたり裂けたり、私の服装は三カ月以上に及んだ森林生活ですっかりぼろぼろになっている。もともと服も靴も作戦行動用の飾り気のないものだし、少なくとも私の年頃らしい服装ではない。どこに敵の目があるかわからないのだ。目立つ格好でウロウロするわけにはいかない。
全身を一からコーディネートする必要はもちろんない。が、他人の目から見て違和感を感じられない程度の服装はしておいた方がいい。
私はバラトルムの地図を思い浮かべて、今の居場所と近隣の都市、村落の位置を照らし合わせる。
「ここから西か」
現在位置から西に十キロくらい先にコルデオという町があるはずだった。そこなら服と靴くらいはどうにかなるだろう。問題は、『平和維持軍(サルバトール)』の駐留が考えられることだが――
「まあ、コルデオに行ってから考えるしかないか」
私は頭の中の地図を頼りに歩きはじめた。
平地を二時間ほど歩き丘を一つ越えたところで、記憶していた通り、コルデオの街を見つけた。
丘の上から石やレンガ、木材で作られた町を見下ろし、ヴァレオンは栄えていたのだなと改めて思う。ヴァレオンには三、四階建ての建物はいくらでもあったし、それ以上の物もあった。遠目に見ても、コルデオには二階建て以上の建物がない。その分、というか、落ち着いた雰囲気を感じる町だ。
「まだ陽が高いか……」
太陽はまだ、頭上から傾き始めたばかりで、人目の多い町に行くには明るすぎる。
私はこの丘で夕方を待つことにした。
「『暗いのは嫌い。明るくなると目が眩んでしまうから』」
私は丘に伏せ周囲を警戒しつつ、マーガティの詩の一節を諳んじる。
「『明るいのは嫌い。暗くなるとなにも見えなくなってしまうから
だから目を閉じるのが好き。明るくても暗くても同じだから』」
私がマーガティの詩を諳んじていると、『魔法強化兵部隊(レクスマギナ)』第三分隊のみんなによく「暗い」とか「後ろ向き」だとからかわれたことを思い出す。
――みんな、か。
私は空を見上げた。太陽が少しずつ、西へと流れていく。
死後の世界が本当にあるなら、死んだら私もみんなと同じところに行くのだろうか。もしそうなら、死ぬのも悪くないと思う。
「でも、今はまだダメか」
私はまだ死ねない。お姉ちゃんが命がけでこの国のために残してくれた命だ。この国のため以外に捨てることはできない。
ただただ、太陽が西の空に去って行くのをじっと待ち、夕闇が世界を覆い始めた頃、私は丘を下ってコルデオの町に入った。
コルデオに入ってから、私は真っ先に服屋を探した。町を歩くまでもなく、ボロボロの服でうろつくのはいかにも目立つとわかったからだ。
すれ違う人たちがいちいち私を痛ましそうに見てくる。正直いい気はしないので、上に羽織るものだけでも調達してまずは目立たない身なりを整えよう。
服屋を探していた私は、町中を歩く二人の兵隊の姿を見た。
見慣れないが、はっきりと記憶にある軍服――『平和維持軍(サルバトール)』の軍服――を着た兵士が突撃銃を下げている。二人で歩いているところを見ると、町のパトロールだろう。
「こんな小さな町にも『平和維持軍(サルバトール)』の駐留部隊が……」
それとなく身を隠した私は内心で舌を打った。私が森に身を隠していた四カ月で、想像以上に国土を敵に掌握されてしまったのだと改めて思い知る。
「なあ、移送中だった少年が拉致されたって話、マジなのかな?」
「それで動いてる部隊があるからな。でも極秘のスケジュールだったんだろ?」
「狙われるってわかりきってるんだから、そりゃあそうだろ」
「でもさ、それならなんで――」
何事かを気楽に話しながら、二人の『平和維持軍(サルバトール)』の兵士は通りを歩いて行った。
『平和維持軍(サルバトール)』がいるとなれば絶対に騒ぎは起こせない。私は路地を曲がると薄暗い裏通りを選んで服屋を探した。
「あ、あそこは仕立て屋かな?」
裏通りにそれらしい店を見つける。まだシャッターは下りておらず、店内から明かりが漏れている。
私は周辺に人目がないことを確認してから、そっと店内の様子をうかがった。店内は広くないが、棚やハンガーを下げるラックがいくつも置いてあり、奥のカウンターから死角になる部分は多い。
「これなら大丈夫か」
店の奥からは話し声が聞こえている。おそらく店主と常連客だ。話が弾んでいるのか楽しげな声がする。ならば周囲に気を払ってはいないだろう、好都合だ。
私は姿勢を低くして、足音を忍ばせて店内に忍び込む。入口に近く、だが外からもカウンターからも死角になる場所に滑りこむと、音を立てないように細心の注意を払って、ハンガーからコートを外した。
服の隙間に身を隠して周囲の様子を確認してから元のルートを通って外へ出ると、人目の届かない裏通りの物陰へ。
「男物だったんだ……まあ贅沢は言えないね」
拝借したコートは男性用だったが、まずはこのボロボロの服を隠すことが大切だ。裾が脛まで届いており私の身の丈には大き過ぎるのだが、今はこれがちょうどいい。
私はコートを着て、後は何食わぬ顔で歩き出した。
もうすっかり陽が落ちた後なのに、通りの人気は少なくない。買い物の荷物を抱えている人もいれば、路上で立ち話をしている人もいる。
国土が他国の軍隊に蹂躙されているというのに、呑気なものだ。
私は楽しげに話している二人の中年女性の横を通り過ぎる時、その会話に聞き耳を立ててみた。
「最近は物が多くなってくれたから買い物が楽になったわねぇ」
「物騒な事件もずいぶん減って、安心して家から出られるものね」
「『世界平和条約機構(W・P・U)』が来てくれたからだってウチの夫が――」
そんな話をしていた。
「……」
――この間まで聖帝様の庇護の元で生きていたくせに。
各地の都市や帝都を守るために命をかけて戦った人間がいることも考えず、別の強者が現れたら喜んで尻尾を振る。
これが民衆かと思わずにはいられない。
「ちょっと、君」
大衆の軽薄さに苛立ちながらコルデオの通りを歩いていたら、後ろから声をかけられた。
「はい?」
「一人かい? もう暗いぞ。こんな時間にどうしたんだい?」
――『平和維持軍(サルバトール)』!
私は反射的に懐の『ケルベロス』を抜きそうになった手を、すんでのところで止めた。
「迷子か? 買い物でも頼まれたのかい?」
「は、……いえ」
咄嗟のことに頭がついてこない。私のしどろもどろな対応に平和維持軍の兵士が気遣わしげな顔をした。
「君、どうした? 大丈夫か?」
「そうだ、お腹空いてないか? チョコレート食べるかい?」
兵隊の一人が笑顔を作って、ポケットからチョコレートを取りだした。私の手に持たせようとしたのか、気安い手つきで私の手に触れようとし――
「触らないでっ!」
思わず手を引いて、私は声を荒げていた。
「えっ? ああ、いや、これは失礼」
私の怒鳴り声を浴び、チョコレートを手にした兵隊がうろたえた声で詫びた。自分の厚意がなぜ拒まれたのかわからないといった顔だ。
「私に構わないでください」
私は彼らに背を向けて歩き出した。
そうだ。この連中と関わることはない。『平和維持軍(サルバトール)』は敵だ。聖帝様の国土を汚し、お姉ちゃんや『魔法強化兵部隊(レクスマギナ)』の仲間たちを殺した敵なのだ。
「でも、君――」
しつこく食い下がってくる声に苛立ちが募り、私はつい足を止めた。
「……あなたたちが来なければ、お姉ちゃんは死ななかったのに」
ぽつりと、だがはっきりとそう呟くと、背後で二人が竦み上がる気配を感じた。
彼らが私の言葉をどう受け取ったのかはわからない。だが、少なくとも、立ち去ろうとする私の後ろ姿が怒りに震えていたことは間違いないだろう。
私が再び歩き出しても、彼らはもう追いかけてこようとはしなかった。
私は頬を伝う涙をコートの袖で拭う。
――悔しい。
悔しい。ただ、悔しい。
国土を踏み荒らし、お姉ちゃんと仲間たちを殺した軍隊が大手を振って町を歩いていることが悔しい。それを平然と受け入れている人々が見るに堪えない。だが、ここで私一人が暴発したところで出来ることは限られている。
自分の無力さに絶望すら覚えるが、それでも出来ることを探すしかない。
とにかく今は情報を集めつつ、友軍との合流を目指す。
脳裏をよぎる敗戦の二文字を懸命に振り払いながら、私は夜通し、次の町を目指して歩き続けた。
私の戦いはまだ終わらない。
3 救出作戦
革新世紀(E・A)七二年三月二二日の昼前、リッカは森の中を進んでいた。
目指す先は、スターリアよりもさらに南西に進んだ先の平野部――人質事件の起きた現場である。
前後の道路は『平和維持軍(サルバトール)』により封鎖されているため、封鎖地点の手前でノーマンが手配してくれた車を降り、道路北側の森を通って事件現場を目指していた。
「ルーベルは大丈夫でしょうか……?」
頬を引っかく藪を払いながら呟く。ファザーフで再会してからの約五カ月はほとんどの時間を一緒に過ごしてきた。ルーベルとの別行動は久しぶりだ。
今頃はもう現場北側の丘の上で待機しているはずだが、今のルーベルを一人にして大丈夫なのか。
ルーベルは――リッカもだが――帝都防衛戦の日からまったく銃に触れていない。銃に触れることで『魔法強化兵部隊(レクスマギナ)』のこと、フォレア村でのこと、ロイゼのことなど、思い出したくないことを思い出してしまうのではないか。
これから実行しようとしている人質救出作戦よりも、そちらの方が気になっていた。
とはいえ、もう作戦は動き始めている。自分から手を挙げたルーベルを信じるしかない。
――今は人の心配よりも、自分のことですね。
リッカは自分で頬を叩いて気持ちを切り替えた。この作戦でルーベルの身に危険が及ぶことはほぼあり得ない。だがリッカは一歩間違えば命を落とすのだ。
死ぬわけにはいかない。残されることになるルーベルのためにも、生きることができなかった仲間たちのためにも、何より、すべてを投げうってリッカを救ってくれたクラリーのためにも。
リッカが人質の少年の知り合いの振りをして聖帝派に接触すれば、聖帝派はいつでも殺せる二人目の人質としてリッカを拘束するはずだ。
人質になった振りをして聖帝派が立てこもるバスに侵入し、リッカが少年を救出。ルーベルの遠距離狙撃で聖帝派を足止めし、少年を連れて逃走する。
それがリッカの立てた作戦だった。
作戦に必要な装備、人員はノーマンが手配してくれた。どう手回しをしたのかは知らない。だが彼はすべてを一日で揃えてくれた。
もちろん、年端もいかぬ少女に装備を与え死の危険がある作戦に従事させたことが明るみに出ればノーマンは『世界平和条約機構(W・P・U)』大使の役職を失うことになるだろうが、
「まあ、大人の世界にはいろいろあるからね」
なんて笑っていた。彼に迷惑をかけないためにも迅速に行動し、『平和維持軍(サルバトール)』とは無関係なところで作戦を完了させなければならない。
「そろそろですね」
森の中を進んでいたリッカは藪に身を隠して、周辺の様子を確かめる。事件の現場は南西の国境から隣国へと繋がっている道の途中で、視界の通った開けた場所だ。
「……あそこですか」
現在位置から百メートルほど先。道の真ん中に鎮座したバスと、防弾盾を構えて遠巻きにバスを取り囲む『平和維持軍(サルバトール)』の兵士たちが見えた。もちろん誰一人として、茂みに隠れているリッカには気づいていない。
聖帝派が立てこもるために補強したのだろう、バスのすべての窓には格子状に金属板が取り付けられている。出入りに使えるのはバスの前方にある昇降口だけのようだった。その周囲には移送に関わった『世界平和条約機構(W・P・U)』職員の死体が見せつけるように放置されている。
犯行グループの総数は把握できていないとノーマンが言っていたが、窓の隙間から見た限りでは十人前後。全員が銃や爆発物を持っていると考えたら、あのバスの中から人質を救出するのはほぼ不可能だった。
――どうしてでしょう。
これからその困難に挑もうとしているというのに、リッカの心はひどく落ち着いていた。
張りつめた雰囲気、漂う緊迫感。肌で感じる戦場の空気に不思議と懐かしさに似た気持ちすら覚え、そんな自分に少し戸惑う。
――大丈夫。
リッカは自分に言い聞かせる。胸に手を当てて静かに呼吸を整えると、ポケットに手を入れて携行品を確認した。問題ない、ちゃんとある。
「こちらリッカ、作戦を開始します」
仲間に通信を入れるように呟いて、リッカは行動を開始した。
森を出て一直線にバスへと近づいて行く。バスを取り囲んでいる兵士たちはバスに集中しており、背後は全く気にかけていない。
「? おい、誰だ!」
「道路は封鎖してるだろ?」
リッカが包囲の間を抜けてバスに駆け寄って行くと、突然現れた、この場にいるはずのない少女の姿を見た兵士たちが戸惑いの声を上げた。
「こら君、待ちなさいっ! 危ないぞ!」
「あの子、私の知り合いなんですっ!」
リッカは制止の声を振り切って、バスに向かって叫んだ。
「オスカっ! 中にいるのオスカですよね! オスカっ!」
リッカはノーマンから聞いておいた少年の名前を呼びながら距離を詰めていく。バスの昇降口まではあと十メートル。
「オスカを傷つけないで、解放して下さいっ!」
あと五メートル。
「オスカっ!」
あと三メートル。
「そこで止まれ」
バスの中からの声。リッカはその指示に従って足を止めた。昇降口から、男が一人、半身を覗かせる。
「お嬢ちゃん、こんなところになんの用だい?」
顔はうすら笑いを浮かべているが、手にはしっかりと回転式拳銃(リボルバー)を握り、銃口をリッカに向けていた。
「オスカを傷つけないで下さい。お願いです」
「お嬢ちゃん、ガキの知り合いか? 全滅した村の、たった一人の生き残りに知り合いがいるってのはどういうことだ?」
「事件の前に、村を離れたので」
「なるほど」
男は、まあリッカの言い分の半分くらいは信じてやってもいいか、というような相槌を打った。なにしろ公表されていない少年の名前を知っているのだ。リッカの言葉には相応の説得力がある。
「で、どっかから噂を聞きつけてガキを助けに来たってワケかい。お嬢ちゃん優しいねえ」
「私が代わりに人質になりますから、オスカを許してもらえませんか?」
「それは無理な相談だな。いいかいお嬢ちゃん? あのガキの価値は、タダのガキの命一個分じゃない。政治的に、大きな価値があるんだ。お嬢ちゃんにはまだ難しいかな?」
とはいえ、と男は続けた。
「わざわざここまで来てもらったんだ、ただ追い返すのも忍びない。バスの中には入れてやるよ」
男はリッカに銃口を向けたまま、こっちへこい、と顎をしゃくった。入っていいとは言ったが、外に出す気はないだろう。
「……あの」
「いいからこいっつってんだろ! 撃ち殺されてぇのか!」
ためらう素振りを見せたら、男が怒鳴り声を上げた。リッカはびくりと肩を竦める。
これでいい。
今のリッカは、見知った少年を助けようとしているだけのただの少女なのだから。
脅され、怯え、逆らえない。そんなか弱い少女だと思わせておけばいい。
「さあ、早くしなお嬢ちゃん」
「……はい」
言われるがままを装い、リッカはバスの中に足を踏み入れた。
「くそ、人質が増えちまったぞ」
「そもそもあの子はなんだ? どっから来た? 道路の封鎖はどうなってるんだ!」
外から想定外の状況悪化に混乱する『平和維持軍(サルバトール)』の兵士たちの声が聞こえてきた。リッカは少しだけ、彼らの仕事に横やりを入れたことを申し訳なく思いつつ、素早く車内の状況を確認した。
――十二人、ですね。
聖帝派の犯行グループは十二人。みな、手にはグラディエーター社製と思(おぼ)しき銃や警棒、手榴弾などを持っている。
各座席の足元には大量の爆薬。一人が倒れてもいいように、起爆スイッチは複数あると考えるべきだろう。
人質の少年はバスの中ほどにいて、目隠しと猿轡(さるぐつわ)をされている。後ろ手に縛られ、首につけた鎖で車内の手摺に繋がれていた。エルヴィンよりも幼く見える。十歳くらいだろうか。
「ほら、奥へ進めよ」
乱暴に背中を押され、リッカは怯えた少女の姿を装いながらニヤニヤ笑う男たちの間を進んだ。
この先、絶対に間違えてはいけないことは、守るべき命の優先順位。
人の命を奪ってでも守るべきは、少年と自分の命だ。
それが必要になった瞬間にためらうことがないように、リッカは心構えを作る。
「ほら、感動の再会だ」
リッカが少年の元に辿りつくと、犯行グループの一人が少年の目隠しと猿轡(さるぐつわ)を外した。ぷは、と少年が息を吐く。
「大丈夫ですか?」
リッカはそっとポケットに手を入れつつ、顔を寄せて少年に囁きかける。
「少しだけ目を瞑って、我慢していて下さい」
「……?」
少年が不思議そうに首を傾げて、
「……お姉ちゃん、誰?」
と言った。
「あん?」
不思議そうに問い返した少年に犯行グループの面々が怪訝な顔をした瞬間、リッカがポケットから取り出した発煙弾が大量の煙を噴出させた。
「うおっ! なんだ?」
「煙? くそ、外からか?」
一気に混乱する車内。リッカは『身体過剰活性(オーバーアクティブ)』を発動すると、少年を繋いでいた鎖を掴んで力任せに引き千切り、小柄な少年を抱えあげた。
「げほっ――ガキが!」
「逃がすなっ!」
リッカの行動に気付いた数名が車内の通路を塞ぐが、リッカは構わずに駆け出した。
「行かせてくださいっ!」
行く手を塞ぐ男たちに渾身の蹴りを放つ。通路にいた三人の男がリッカの蹴りでひとまとめに吹き飛び、補強具とフロントガラスを突き破って車外に消えた。リッカは少年を抱えたまま男たちが開けたフロントガラスの穴を通って車外に脱出する。
「くそ、ガキを逃がすな! 撃ち殺せ!」
まとめて車外に蹴りだされたうちの一人が、地面に倒れたままリッカに回転式拳銃(リボルバー)を向けた。背中に向けられた銃口の気配を感じつつ、リッカはただ走る。
銃を向けられても、恐怖は感じなかった。
――大丈夫。
「クソガキが! 死ねっ!」
男が真っ直ぐ走るリッカの背中を撃とうとしたその瞬間、――ギィン! と、どこからか放たれた銃弾が、男の手から回転式拳銃(リボルバー)を弾き飛ばした。
遥か彼方――六百メートル後方の丘の上からの長距離射撃だった。続けざまに放たれた数発の徹甲弾が昇降口のステップやホイールに着弾し、バスから出てリッカを追おうとした聖帝派を釘づけにする。
「くそっ、スナイパーが――!」
ルーベルが銃を撃つのは、これで最後になって欲しい。そんなことを思う間に、バスを包囲していた『平和維持軍(サルバトール)』の兵士たちの間を駆け抜ける。
人質の脱出を理解した『平和維持軍(サルバトール)』が聖帝派と交戦を始めたのだろう。ダンダン、タンタン――と遠くなっていく銃声を背後に聞きながら、リッカは少年を連れ、現場を離れていった。
現場から十分に離れすべての追跡を振り切った時点で、リッカは少年を抱えたまま道路沿いの森に入り『身体過剰活性(オーバーアクティブ)』を解除した。長く発動させていたため、髪が背中の中ほどまで伸びていた。
「もう、大丈夫ですよ」
抱えていた少年を下ろして、腕を縛っていた縄を解いてやる。ようやく自由になった少年は赤くなった手首をさすりながら、また、不思議そうにリッカを見た。
「あ、あのぅ」
「なにも言わないで下さい。あとはこれを」
リッカは人差し指を立てて少年の言葉を止めると、ポケットから取り出した小さな機械のスイッチを入れて、少年の手に握らせた。
「お守りです。これをもっていたら、必ずおうちに帰れますから」
それは位置情報を送信するための発信器だった。信号を確認次第、付近で待機している回収班が少年の身柄保護に動く手筈になっている。
「それじゃあ私は行きます。お守り、絶対に放さないで下さいね」
「あ、待って――」
立ち去ろうとしたリッカは、少年に腕を掴まれて足を止めた。
「ありがとう、助けてくれて」
「……」
この少年は知らない。
この少年――オスカが一人になってしまったのは、リッカたちの部隊による攻撃によるものだということを。
その攻撃がなければ、そもそも家族を失うことも、こんな事件に巻き込まれることもなかったのだということを。
知らないのだ。
「……」
罪悪感。
後悔。
そんな言葉だけではとても言いつくせない気持ちがリッカの胸に満ちる。それはただただ痛みとなって、リッカの胸を突き刺した。
ぽとりと、涙が落ちた。
「……? お姉ちゃん?」
リッカは不思議そうに首を傾げた少年の頭を抱いた。
「……ごめんなさい、ごめんなさい。許してなんて、言えないです。ごめんなさい」
「なんで? お姉ちゃん?」
腕の中で少年がもぞもぞと動いている。リッカは少年の髪を撫で、もう一度ごめんなさいと詫びたあと、少年を解放した。
少年に背を向け、走り出す。
呼び止める声を振り払って、走った。
ルーベルの待っている場所へ。
事件の現場から六百メートル北側にある丘の上。
リッカがルーベルの待機している狙撃地点に到着した時、ルーベルは狙撃銃――『SR43――アーバレスト』を抱えたまま、呆然と空を見ていた。
「ルー、お待たせしました」
「リッカ……お姉ちゃん」
リッカが声をかけると、ルーベルが『アーバレスト』を投げ捨て、満足に動かない足を引きずるようにすがりついてきた。
リッカにすがりついたルーベルは震えて、泣いていた。
本人が望み自ら手を挙げたことだとしても、やはり、今のルーベルには過酷なことだったかもしれない。
小さな身体を震わせるルーベルを抱きしめながら、リッカは少し後悔した。
「ごめんなさい、ルー。辛かったですよね、ごめんなさい」
狙撃銃を構え、スコープを覗く。
それはきっとルーベルにとって、自分の過去の行いを見せつけられることと同義だろう。
命令だったから。
自分の意志ではなかったから。
そんな理由だけで自分を許せるはずもない。
ルーベルは、リッカの腕の中で泣いた。
泣いて、泣いて、ひとしきり泣いた後、泣きはらした目で、自分の瞳と同じ色をした空を見上げた。
「……ねえ、リッカお姉ちゃん」
「なんですか?」
「みんな、お空にいるんだよね? クラリーお姉ちゃんも、ラトナお姉ちゃんも、みんな、みんな、お空にいるんだよね?」
リッカも、同じように空を見上げた。
「……きっと、そうだと思います」
リッカは腕の中に収まっているルーベルを見下ろして微笑んだ。
そうだと思うというより、そうだったらいい、そうであってほしいと思う。
「……お花」
「お花?」
「……お花を、たくさん植えたい。お空にいるみんなに、きれいな景色が見えるように」
なにかしたいと、ルーベルが口に出すのはずいぶん久しぶりのことで、リッカは一瞬、呆気にとられた。
「……そう、ですね。じゃあ、花壇を作って、お花をいっぱい植えましょうか」
リッカは涙ぐみながら微笑んで、ルーベルを抱きしめた。柔らかな髪に頬をすりよせ、何度も何度も、髪を撫でた。
うれしかった。
ルーベルが望みを、希望を口にしてくれたことが、うれしかった。
「うん」
少しずつでいい。
償うことも、取り戻していくものも、少しずつでいいのだ。
リッカはそう思った。
4 リュミエイラの作戦記録⑤ 願い
革新世紀(E・A)七二年五月二三日。
私の戦いは、まだ続いていた。
帝都ヴァレオンの戦いからやがて約半年、潜伏していた森を離れてから約二カ月。
私はバラトルム各地を転々と回り、友軍の捜索を続けていた。
でも、この頃はどうしたらいいのかわからなくなることが多い。
歩く以外に移動手段を持たない私は、町から町へ移るだけでも結構な時間を浪費してしまうし、そうして辿りついた先には必ずと言っていいほど『平和維持軍(サルバトール)』の部隊が駐留している。
また、町の人々がそれを望み、受け入れているように見えることが、私を苛立たせるのだ。
「外国企業の工場で働くなんて……」
見覚えのない看板をつけた工場が町のあちこちにある。外国企業がバラトルム人を工員として雇い、働かせている工場だろう。
雇用、生活の安定。そんな聞こえのいい言葉に騙されて、真綿で首を絞めるようにじわじわと生殺与奪を握られていく自分たちに、人々はなぜ気づかないのか。
もうじき国の代表を決める投票――選挙が行われるという情報も耳にしたが、それとて旧政権に関わりのある者は立候補すら許されないだろう。
新政権は『世界平和条約機構(W・P・U)』の傀儡となり、バラトルムは『世界平和条約機構(W・P・U)』の属国になり果てる。
「この町もだめか……」
私は食料品店から失敬したレーズン入りのパンを頬張りながら、町を見回る『平和維持軍(サルバトール)』の兵士からそれとなく身を隠した。
駐留の名目は治安維持なのだろうが、その傍らで私たち――バラトルム軍の残存戦力の殲滅を企んでいるのはまちがいない。
幸い、今までに何度か遭遇してしまった『平和維持軍(サルバトール)』の兵士たちは私が魔法強化兵(マギナ)であることには気づかなかった。孤児を見たらああ言えこう言えとマニュアルで決められていることなのか、彼らは決まって、
『道に迷ったのか』
『親はいるのか』
『お腹は空いていないか』
『なにか困っていないか』
などと言う。
自分が来たからにはもう大丈夫だ、安心しろと言いたげなその傲慢な態度が、すっかり聞き飽きた言葉を繰り返されることと重ねて私を苛立たせる。
いや、たぶんそれは正確じゃない。
私を苛立たせているのは、どの都市にも、どの町にも『平和維持軍(サルバトール)』が駐留しているという事実そのものだ。
それはつまり、バラトルム聖帝国は国土を維持できていないという証明に他ならない。
友軍との合流も果たせずいたずらに時間だけが流れていく中、各地をさまよう私はそれを忸怩たる思いで眺めていることしかできない。
いよいよ、自分が生き延びたこと自体が間違いで、やはりヴァレオンで死ぬべきだったのだと思えてくる。
「君、一人で買い物かい? お母さんのおつかいかな?」
町中を歩いていた私を『平和維持軍(サルバトール)』の兵士が呼び止めた。しまった。物思いに耽っていたせいで、周囲への警戒がおろそかになっていた。
「……」
「ん? どうした? 大丈夫だよ、怖くないから。お兄さんたちは兵隊だ」
『平和維持軍(サルバトール)』の兵士二人が、示し合わせたようにへらへらと笑う。
私を安心させようというのなら、それは逆効果だ。
――どこに行っても同じなら、もうここが終点でもいいかもしれない。
この町を最後の戦場として、聖帝閣下への忠誠を示そうか。
私はそっと、コートのポケットを探る。手に触れる鉄の感触は、護身用の機関拳銃(マシンピストル)『МP四八――ケルベロス』だ。
九ミリ弾を三発ずつ目の前の間抜け面に叩きこみ、二人を射殺。三秒もかからない。死体から武器を奪って、この町の『平和維持軍(サルバトール)』駐屯地に攻撃を仕掛ける。
それで死ぬなら悪くない、そう思った。
私はポケットの中で『ケルベロス』のグリップを握る。
「あのぅ――」
「ん? なんだ?」
と、『平和維持軍(サルバトール)』の兵士が首を傾げた瞬間――
ずん、と目の前にあった工場から爆発。爆音が響き、空気を揺らした。
――爆発っ!
私は爆風と飛散物から手で顔をかばいながら、反射的に周囲の状況を確認した。工場の壁が吹き飛んでいる。粉塵の立ち込める中に、瓦礫と、手足を吹き飛ばされた人間と思しき物体が転がっていた。
――事故? テロ?
その瞬間に私が思い浮かべたのは、バラトルムの反政府勢力『不滅の盾(アイアス)』だった。工場を標的にしたテロは彼らの常套手段だ。
だが、
「くそっ、また聖帝派か! ここは危ないから君は避難して」
「こちら第三パトロール、テロ発生と思われます。負傷者多数の模様。至急応援を!」
二人の『平和維持軍(サルバトール)』兵士が口々に叫びながら、爆発した工場に走って行く。
私は凍りついたように動くことも出来ず、その背中をただ見送った。
聖帝派(・・・)。
兵士の一人は確かにそう言った。
その言葉が事実なら、このテロの実行犯は聖帝閣下に従う者たち――バラトルム軍の残存勢力ということになる。
私が合流を目指していた友軍だ。
友軍がまだ戦っているなら、目の前にその戦場があるなら、私も呼応し、敵に打撃を与えるべきだ。
幸い、続々と集結してくる『平和維持軍(サルバトール)』の兵士たちは現場や怪我人に気を取られていて、道端に立ちつくしている少女(私)など気にも留めていない。
敵に――侵略者に打撃を与える絶好の機会。
頭ではそうわかっていたのに、私は動けなかった。
怪我人を助けようと肩を貸している兵士。瓦礫の下敷きになった人を救い出そうとしている兵士。担架を運ぶ者、包帯を巻く者。彼らが助けようとしているのは、たとえ、聖帝閣下の恩を忘れた者だとしても、それがバラトルム人であることには変わりはない。
――それを撃つのか?
「こっちだ!」
「いたぞっ!」
「複数だぞ、気をつけろ!」
現場付近を警戒していた数名の兵士が慌ただしい叫び声が聞こえ、騒然としていた現場に銃声が響いた。
私は咄嗟に、銃声の聞こえた方に駆け出していた。
このテロの実行犯が誰なのかを確かめたい。その一心だった。
爆破された工場の脇を駆け抜け、叫び声と銃声を頼りにいくつかの路地を曲がる。
そして、テロの実行犯が射殺される瞬間を見た。
「ガエン聖帝……万歳……っ!」
絶命する男は、確かにそう叫んだ。
かつて自分たちが取り締まる側だったはずのテロ。
その行いに手を染めた友軍の声を聞いて、私はようやく理解した。
私たちは戦いに負けたのだということを。
変わりゆくバラトルムを止めることは、もうできないのだということを。
ならば、ここを死に場所にするべきだ。
私は再び『ケルベロス』のグリップに触れ――
――私は一体なんなんだろう。
なにも出来ずにその場を離れた私は、町の郊外を歩いていた。
結局、私はまた死に損なった。
国家のお役に立てず、死ぬべき時に死ねず、ただひたすら生にしがみついている。
これでは命をかけて私を逃がしてくれたお姉ちゃんにも、戦死した『魔法強化兵部隊(レクスマギナ)』の仲間たちにも、国土を守るために戦った同胞たちにも、聖帝閣下にも、誰にも会わせる顔がない。
結果的に、私はみんなを裏切ってしまった。
――でも。
一度ならず、何度も死に損なってしまったせいだろうか。
死にたくない、と思った。
死ぬなんてなにも怖くないと、国家に対する責任であり名誉だと思っていたはずなのに、まだ生きていたかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい……」
私は死者に泣いて謝りながら、町の郊外を行くあてもなく歩いた。
やがて、景色が変わる。
花が咲いていた。
そこは郊外に作られた花畑だった。
白、黄色、赤、青、紫。色とりどりの植物が、可憐に、優雅に、力強く、青い空の下にのびのびと花を咲かせている。
「きれい……」
風に揺れる花々の美しい色彩に、自分でも意識しないまま声がこぼれた。
その美しさを前に、ふと思った。
――もしかしたら、私の戦争は、私が知らないうちに終わっていたのかもしれない。
私はこの時、初めてそう思った。
5 青空
「それじゃあ行きましょうか。ルー、準備はいいですか?」
「だいじょうぶ」
「じゃあ出発です」
「うん」
一揃いの園芸道具を抱えたルーベルの車椅子を押して、リッカはスターリアの児童福祉施設を出た。
屋外に出ると、よく晴れた空の下に心地よい風が吹いていた。リッカの赤毛とルーベルの淡いブロンドが柔らかに揺れる。
「今日もいい天気ですね」
「うん」
空を見上げながら、二人で世話をしている花畑に向かう。
革新世紀(E・A)七二年五月二三日。
昼下がりの空は、今日も青かった。
Fin.