第九話 入浴
魔力が極端に低いカリーナは、他の一般的な魔法使いよりも、魔法の練習に当てられる時間が少ない。
魔法を使用するには、魔力が必要だからだ。
カリーナの魔力では、初歩的な魔法でも少し練習しただけで尽きてしまう。
一度魔力が空になってしまうと、後は自然と回復するまで、実践的な練習はおあずけになるのだ。
だからカリーナは、その空いた時間を他の訓練や勉学に費やした。
特に魔法に関する知識なら、学院の同級生どころか上級生にだって負けない自信がある。
各流派が独自に開発している魔法の詳細までは知る術がないものの、広く開示されている魔法はだいたい覚えていたし、大会などでトップクラスの魔法使い達の戦いを観察して、誰がどのような魔法を使用していたかを、カリーナは全て覚えていた。
だがそんな彼女でも、自分の師匠が使ってみせた魔法は見たこともなかった。
一級魔法使いの奥義に匹敵する……いや、それ以上の強力な魔法を放って涼しい顔をしているアキラの魔力にも驚いたが、それ以上に興奮した。
自分も同じ魔法を教えてもらえるかもしれないと思うと、気が昂ぶった。
そしてアキラは、彼女のそんな期待を遥かに上回る場所に連れて行ってくれた。
一冊一冊が国宝級の……どれか一冊でも外に流出したら、魔法学界に革命が起こりそうなクラスの魔法書が、大きな本棚にぎっしりと詰まっている書斎。
そこに案内され、アキラはどれでも自由に読んでいいと言い出したのだ。
これには流石に、目眩がした。
自分如きに、これほどのものを与えて本当にいいのだろうか?
自分は、これほどの厚遇に報いることはできるのだろうか?
そんな不安を覚えるのと同時に、アキラの流派名を知らないことに罪悪感が湧いた。
これほどの人が師範を務める流派を、どうして自分は知らなかったのだろうか?
弟子を取るのは初めてだと言っていたが、彼ほどの人物が無名なわけがない。
きっと自分が、どこかで見落としていたのだ。
カリーナはそう考えた。
だから今さら流派の名を聞くのは、「あなたの流派が何か? 聞いたこともないけれど、他になかったので弟子入りを希望しました」と白状しているようなもので、気が引けた。
実際にその通りなのだし、自分が悪いのだが、初めて自分を評価してくれた人から熱意を疑われるかもしれないと思うと、どうしようもなく怖かった。
だが、いつまでもこのままにしておくわけにはいかない。
そう思うカリーナは、どうにかして話を切り出そうと苦悩していたのだが……アキラの屋敷に、とある天使が訪問してきた衝撃のせいで、頭の中から吹き飛んでしまった。
なにせやってきた天使は、魔法使いならば誰でも知っているような有名人だったのだ。
王都の魔法使いギルドのトップにして、トウェーデ魔法学院の学院長。
天界でも六名しか存在しない最上位階級の熾天使。
かつて勇者アデルと共に魔王の軍勢と戦った、生ける伝説。
神焔のウリエル、その人だった。
「あら、誰かしら?」
「俺の弟子だ」
「カ、カリーナと申します」
アキラから紹介され、カリーナは緊張した面持ちで頭を下げる。
彼女がウリエルの姿を見たのは、これが初めてではない。
だがそれは、トウェーデ魔法学院で新入生の入学を祝う催し事があった際に、挨拶に来た彼女を遠目から見たのみであった。
当時は、絵本の中で憧れるしかなかった存在の登場に、誇張抜きで感涙しそうになったのをカリーナは覚えている。
そんな天上人であるウリエルは、カリーナの名前を聞くと、こめかみに指を当てて考え込んだ。
「ん~、どこかでその名前を聞いたような……? ああ、思い出した!」
ウリエルは手をポンと打つと、どこか悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「七級で、四級の依頼を受けようとしていた問題児ちゃんね~」
そう言って上品に笑うウリエルに、顔色を青くしたカリーナは慌てて頭を下げた。
「あ、あの時は、ご迷惑をお掛けしましたわ!」
「ああ、別に責めているわけじゃないのよ~」
宥めるようなウリエルの声に、しかしカリーナは内心で戦々恐々とする。
もしかしたら、自分を戦闘系に入門させないよう各流派に通達したのは、彼女なのかもしれないとカリーナは思っていた。
正直なところ、それを知った時は危うく逆恨みしそうになった。
でも今なら、悪いのは圧倒的に自分だったと冷静に考えられる。
天使は、地上に生きる人間や亜人の守護者だ。
五級以下が戦闘系に入門できなかったり、ギルドが受けられる依頼を厳しく管理しているのも、ひとえに魔法使いの命を守るためである。
自分の行いは、その気遣いを踏みにじるようなものだったと思う。
悪いのは自分。
それが分かっているからこそ、
咎められるのが怖かった。 今にも、「七級の生徒がどうして戦闘系の流派に入門しているのか」と言われそうで、気が気でなかった。
そう言われてしまえば、自分はここを出て行くしかないのだから。
だがカリーナのそんな心配は杞憂だったようで、ウリエルは特に何かを咎めることはなかった。
「ふふふ、でもちょっと意外だったわ」
「そうか?」
「そうよ~。あなたの性格なら、弟子を取るのにもっと時間がかかると思ってたもの」
アキラとウリエルは、知り合いなのだろうか?
どこか親しそうな二人の雰囲気に、カリーナはほんの少しだけ、胸の奥がチリッとしたような気がした。
それが何なのか分からず、カリーナは不思議そうに首を傾げる。
すると、いつのまにかウリエルが彼女の顔を見つめていた。
「ふ~ん?」
「あの、何か?」
じっとりと観察するような視線に、何かを見透かされたような気がして、カリーナは落ち着かない気分になる。
どうしていいか分からず戸惑っていると、ウリエルが名案を思いついたとばかりに、手を叩いた。
「そうだ! ねえ、カリーナさん。今ちょっと時間はあるかしら?」
「それは……」
言い淀みながらアキラに目を向けると、彼はカリーナの言わんとしていることを察して頷く。
「ああ、今日はもう構わないぞ」
カリーナがアキラの許可を得ると、改めてウリエルは弾んだ声を上げた。
「なら一緒に、お風呂に入りましょう」
「……………………え?」
あまりにも唐突に思えるウリエルの提案に、カリーナは目を点にしたのだった。
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屋敷から少し離れた場所にある建物に、それはあった。
王侯貴族でも見たことがないであろう、絢爛豪華な浴室。
床から浴槽に至るまで、磨き上げられた白い大理石が敷き詰められ、天井は石造りでありながら、付与された魔法によって空を一望できるようになっている。
広大な浴槽の傍には獅子の彫刻があり、その口からは絶えずお湯が吐き出されていた。
どこか神殿を連想させる造りの浴場に、カリーナとウリエルは感嘆の声を上げる。
「やっぱり、あったわね~」
「やっぱり?」
彼女の発言に首を傾げると、ウリエルは苦笑しながらも、懐かしそうに目を細めた。
「彼って、昔からお風呂が大好きだったのよ。一日に、何回も入っていたぐらいに」
「……よく知っておられるのですね」
「ん~? そりゃね~」
またチリチリとしてきた胸の内を誤魔化すように、カリーナは浴槽に入ろうとして──
「あら、駄目よ」
ウリエルに腕を捕まれて引き留められた。
「湯につかる前に、ちゃんと体を洗うか、かけ湯をしてから入らなきゃ。あなたのお師匠さんに見られたら、口うるさく怒られるわよ~」
「そ、そうなんですの?」
アキラに見られるというのは別の意味で大問題になると思うが……それとは別に、聞いたことのないマナーに、カリーナは首を傾げる。
そもそも彼女は、実家では一人で浴室に入ったことはなく、いつも侍女にされるがままだった。
爪の先まで磨き込むのは侍女の仕事で、自分ではまともに体を洗ったことがない。
そのことに思い至ってカリーナが戸惑っていると、彼女が元貴族の子女だと知っているウリエルは、面白い悪戯を思いついた時の子供のような笑みを浮かべた。
「もしかして、お風呂の入り方が分からないのかしら?」
「え、ええ。お恥ずかしながら……」
「ふふふ、なら私が教えてあげるわね~」
嫌な予感を覚えるも、どうしていいか分からず、カリーナは浴場の端に備え付けられていた椅子に座らされた。
そして手近にあった入れ物から見たこともない液状の何かを手に取ると、ウリエルはザラザラとした奇妙な布を使ってカリーナの体を洗い始める。
珍しい布や洗剤を使っていること以外は、侍女達がやっていたことと別段変わったところはない。
だというのに、どうしてか背筋にぞわぞわと悪寒が走った。
体を探られるような手付きに、思わず眉を顰めてしまう。
「ん~」
「どうかしましたの?」
「子作りをするには、まだちょっとだけ成長が足りないかしら?」
「こ、こづくっ──」
ウリエルの発言に、カリーナは思わず彼女の手から逃れるようにして、立ち上がってしまった。
「あら、どうしたの?」
ニコニコと悪びれない笑顔に、カリーナは堪えきれずに嘆息する。
そして、恨めしそうにウリエルの大きく実ったそれに目をやった。
たしかに彼女のそれに比べれば、自分のものは貧相な育ち方しかしていない。
「わたくしには、まだ早いです」
「そうかしら? あと二年ぐらいで、早い人は結婚している年齢よ?」
「あと二年もありますわ」
「たった二年しかないわよ~」
悠久の時を生きるウリエルと、まだ十三年ほどしか生きてないカリーナとでは、時間への捉え方が違っているのはしょうがない。
カリーナはまた小さく溜息をついて、話を変えることにした。
「どうして、そんな話を?」
「ん~、優秀な子孫は沢山いた方がいいからかしら? 私じゃ、人間の子供は産めないもの」
「はあ……」
言っていることがよく分からず、カリーナは困惑する。
だがウリエルはそれに構わず、自分のペースで話を続けた。
「ねえ、彼のことはどう思ってるのかしら?」
「彼?」
「貴女のお師匠様のことよ~」
「素晴らしい方だと思いますわ」
素直に思ったことを伝えると、なぜかウリエルに顔を凝視された。
「ふむ、まだ自覚はないのかしら? それとも私の勘違い?」
「……え?」
「さあ、体を洗ったら浴槽に入りましょう~」
ウリエルはそう言うと、カリーナにはわざわざ引き留めてまで体を洗ったというのに、自分は軽くお湯をかぶっただけで浴槽に入っていった。
なんとなく彼女の性格が掴めてきたカリーナは、釈然としないものを感じつつも、何も言わずに後に続く。
二人が浴槽に入り、湯に肩までつかった瞬間、カリーナの体が唐突に淡い光に包まれた。
体の奥底に眠っていた力が目覚めて滾ってくるような心地に、目を丸くする。
「あ~、この感覚、懐かしいわね~」
「何ですの? これ……」
「ふふふ、驚いた?」
自分にまとわりつく青白い光を見て不思議そうにしているカリーナに、ウリエルが説明する。
「魔力の回復、肉体強度や感応値の一時的な上昇などなど……彼の造るお風呂は、昔から特別製だったの。便利でしょ?」
「便利って……」
そういう次元の話じゃなかった。
魔力が回復するお風呂があるなど、物語にあるような絵空事の中ですら聞いたことがない。
このようなものが表に出たら、世界中の国や魔法使いが大騒ぎするのではないだろうか。
「魔力が尽きたら、何度でも入るといいわ。それなら、一日に好きなだけ魔法の練習ができるでしょう?」
「え、ええ……」
カリーナは、わりと風呂に入ることは好きだ。
それが、このような煌びやかで豪華な浴場となれば、尚更である。
今日のようにウリエルに遊ばれなければ、それこそ一日何度入っても飽きないだろう。
だからカリーナとしては、訓練でそんなに楽しい思いをしていいのかと、ちょっと不安になったのだった。