
第三話 カリーナ
「お嬢様、そろそろお時間です。お目覚めになって下さい」
いつもの侍女の声に意識を浮上させたカリーナは、鉛のように重たい瞼に力を入れて見開いた。
窓から差し込む春の日差しに照らされ、目に鋭い痛みを感じる。
体は重く、まだまだ寝足りないと関節の節々が悲鳴を上げていた。
このまま二度寝し、疲弊した頭や体を休ませたい欲求に駆られる。
だが、今の自分にそんな甘えは許されないことを思い出し、カリーナはベッドから無理矢理体を起こした。
やや切れ長の目の下には、色濃いクマができてしまっており、鼻筋の通った綺麗な顔立ちが台無しになってしまっている。
顔色も青く、立ち上がるなり体をふらつかせて倒れそうになるも、彼女は歯を食いしばってそれを堪えた。
カリーナが体調を崩しているのは、誰の目にも明らかだ。
しかし彼女の世話をする侍女は興味がなさそうに黙殺し、カリーナの赤みの強い栗色の髪を手入れし始めた。
目の下にあるクマはどうしようもないものの、それ以外はこれから朝食を共にする相手に失礼のないよう、身嗜みを整えていく。
侍女はカリーナに華やかな衣装を着せ、腰まで届く長い髪を念入りに梳いて下ろし、両側面の髪を頭の後ろに回して一つに結んだ髪型……ハーフアップに仕上げていった。
一般的な平民の感覚なら、気心の知れた家族との食事でするような装いではない。
だが貴族の家……少なくとも、侯爵の位を持つラッセル家では普通の日常であった。
カリーナが父親との会食に臨むべく部屋の外へ出ると、廊下で彼女と同じ髪色をした男と出くわした。
今年で十三歳になるカリーナよりも、三つほど年上の青年だ。
「おはようございます、カラムお兄様」
軽く膝を折って挨拶をする彼女の姿に、カラムと呼ばれた男は、あからさまに顔を顰めた。
「……今日も元気そうだな、妹よ」
カラムの視線は、彼女の目の下にあるクマに向けられている。
明らかに皮肉なのだが、カリーナは黙って微笑みを浮かべた。
すると何が気に入らないのか、カラムは忌々しそうに舌打ちをすると、後は何も言わず彼女を置いて食堂へと向かっていく。
行き先は同じなので、カリーナもそれに続いた。
二人が食堂に入ってテーブルの定位置に着くと、それから少し時間を置いてやってきた壮年の男が、上座に腰掛けた。
くすんだ金髪の、柔和そうな顔立ちをした男だ。
名をアイザックといい、彼こそがこのラッセル家の現当主である。
カリーナの家族は、他にも年の離れた弟と妹がいるが、二人はアイザックが所有する領地の屋敷にいるので、王都に建てた別宅である此処にはいない。
アイザックは食事が運ばれてくる前に、にこやかな表情で二人に話し掛けた。
「二人とも、最近の調子はどうだい?」
「特に何も。いつも通りです」
「……」
父親の問い掛けに、カラムは何でもなさそうに応え、カリーナは顔を俯かせた。
そんな二人の反応を見比べて、アイザックは苦笑する。
「謙遜しなくてもいいよ、カラム。お前の学院での活躍は、私も聞き及んでいる。今年のトウェーデ魔法大会でも、入賞は確実だと目されているそうじゃないか。流石はラッセル家の長男だ」
「ありがとうございます」
カラムは褒められたことで小さく頭を下げるも、自分にとってこれぐらいは当然といった態度は崩さなかった。
対して、カリーナの表情は暗い。
「それで、カリーナは弟子入り先が見つかったのかな?」
「……」
「カリーナっ! 父上に対して失礼だぞ!」
「カラム、いいんだ」
何も答えようとしないカリーナにカラムが叱咤するも、アイザックはそれを宥めた。
「ふむ。その様子だと、まだ見つかっていないようだね」
「はい……」
カリーナは顔を俯かせたまま、消え入りそうな声で応える。
肩を落として落ち込んでいる彼女に、アイザックは柔らかく微笑みかけた。
「大丈夫、きっと良い弟子入り先が見つかるよ。諦めずに、頑張りなさい」
「……ありがとうございます、お父様。今日はきっと、ご期待に応えられると思いますわ」
アイザックの言葉に、カリーナは顔を上げて小さく笑みを浮かべた。
決して自分の境遇を楽観視しているわけではなく、自信がありそうなところを見せて父を安心させるための、虚勢の笑みだ。
それを見て、アイザックは満足そうに頷く。
ラッセル家は、代々優秀な魔法使いを輩出してきた、伝統のある家だ。
いや、ラッセル家に限らず、ランドリア王国の貴族は優秀な魔法使いの血筋を積極的に取り入れており、全体的に高い才覚を持っている。
魔法使いとしての力量が、そのまま貴族社会でのステータスにもなるからだ。
なので女性であれば、優秀な魔法使いほど婚姻の申し込みが多くなるし、逆に力の弱い魔法使いであれば、たとえ大貴族の娘であっても婚姻を嫌がられる傾向にある。
あまりにも才能がなさすぎれば、家の恥として最悪捨てられることだってありえた。
だというのに、アイザックは……カリーナの父親は、魔法学院で劣等生のレッテルを貼られてしまっている不甲斐ない娘に、怒鳴りつけたり、嫌みを言ったりしたことは一度もない。
そんな優しい父親を喜ばせたい一心で、カリーナは何としてでも今日中に弟子入り先を見つけようと意気込んだ。
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トウェーデ魔法学院とは、今から百年前に天使達が作ったとされる学舎のことである。
世界に四つある大陸に一校ずつ、各大陸の一番大きな国の首都に、その魔法学院は設けられていた。
最初の一年間は、午前中にある通常授業と同じく、午後からの魔法の授業も共同で受ける。
そして一年目最後の成績に応じて、魔法使いのランクである一級から七級に振り分けられると、二年目からは天使が認可した魔法使いの元で、各流派の魔法を学ぶことになっていた。
生徒は自分の行きたい流派を選び、そこで様々な審査を受け、無事に合格できたら晴れて弟子入りが許される。
当然、人気のある流派は競争率が高く、審査も厳しい。
そういった人気流派の審査をいくつも受け、その全てに落選してしまう生徒も沢山いた。
とはいっても、弟子を募っている魔法使いは多く、たとえ七級の生徒であっても、どこかの流派に入門できるように学院は配慮している。
だから、分不相応な高望みをしなければ、誰でもすぐに師が見つかるようになっていた。
つまりは、ひと月も師を探す期間が設けられているのに、あと二日を残してまだ弟子入り先が見つかっていないような生徒は、分不相応な高望みをしているということであり──
午前中の通常授業を受けるために校門をくぐったカリーナに、そこかしこから嘲笑の眼差しが向けられた。
どこかに弟子入りした者は、入門した流派を示す小さい記章が与えられる。
だから学院の制服にそれが付いていないと、まだ弟子入り先が見つかっていないことが一目瞭然なのだ。
それに、大貴族である侯爵家の娘でありながら七級という評価を受けてしまった彼女は、悪い意味で注目が集まりやすい。
学院の在校生の中で、貴族でありながら五級以下の成績である者は、カリーナしか存在していないからだ。
さらにいえば、貴族で七級という成績は史上初でもある。
それでも、自分の力のなさを認めて相応の流派に入門していれば、他生徒から今ほど冷たい目を向けられることはなかっただろう。
だが彼女は、高い力量を求められる流派にばかり足を運び、審査どころか門前払いを受け続けていると噂になっていた。
力を示そうとしたのか、七級であるのに四級以上の依頼を受けようとして、魔法使いギルドに迷惑をかけたこともある。
何も知らない他人から見れば、頭の悪い愚か者の所業にしか映らない。
カリーナが、ほとんどの生徒から良い印象を持たれていないのも、当然だろう。
それを自覚しているカリーナは、時折聞こえてくる侮蔑の言葉に我慢しながら、俯きそうになる顔を前に向けて歩き続けた。
やがて、真ん中にある教壇を中心として、すり鉢状に机が並んでいる教室の前にたどり着くと、入り口付近で金髪を縦巻きにした少女とはち合わせになった。
その胸には、名門と名高い「マクダーモット流」の記章が誇らしげに飾られている。
「あらカリーナさん、ごきげんよう」
「……ごきげんよう、レベッカさん」
声を掛けてきたのは、カリーナと同じ高位貴族の娘である、レベッカ・ミルフォードだ。
彼女は自慢の巻き髪を見せつけるように手でかき上げると、見下すような目で正面にいるカリーナを見据えた。
「その目の下にあるクマはどうしたのかしら? 夜更かしでもしていたの? 落ちこぼれは、自己管理もできないようね」
「ええ。思慮が足らず、お恥ずかしい限りですわ」
「それで、そろそろ弟子入り先は決まったのかしら?」
「いえ、まだですわ」
カリーナが首を横に振ると、レベッカはわざとらしく溜息をついた。
「いい加減、貴族の品位を疑われるような真似は、やめて下さらないかしら?」
「……ええ、今日までに弟子入り先を決めてご覧に入れますわ」
今日こそ自分が望む流派へ入門してみせると、カリーナは不敵な笑みを浮かべる。
レベッカはそれに目を丸くした後、救いようのない馬鹿を見たとでも言いたげに、鼻で笑った。
「そう。では、精々頑張ってみなさいな。貴女に良い結果が出ることを、祈ってるわ」
「お気遣い、痛み入りますわ」
そこで会話を打ち切り、背を向けて教室へと入っていくレベッカ。
彼女に続いてカリーナも教室に入り、自分の席へと座る。
すると、彼女の隣に座っている、長い黒髪を後ろの高い位置で括った少女が、声を潜ませてカリーナに話し掛けてきた。
「大丈夫? さっきレベッカ様と一緒に教室に入ってきたみたいだけど……」
「ありがとう、ヘレナ。わたくしは、大丈夫ですわ」
自分のことを心配してくれたヘレナという名の少女に、カリーナは心から笑顔を浮かべる。
席が隣り合ったことで親しくなった彼女は、カリーナの数少ない友人だった。
「それでさ、その……見つかったの?」
「いえ、残念ながら……」
言葉を濁しながら聞いてくるヘレナに、カリーナは首を横に振った。
「七級でも生産系の流派なら、どこかに弟子入りできるのに……どうしても、戦闘系じゃないと駄目なの?」
「……」
彼女のもっともな言葉に、何も言えなくなって口を閉ざす。
トウェーデ魔法学院の生徒は、四級以上は戦いを生業とした流派に、五級以下は魔道具や魔法薬などの生産を生業とした流派に入門するのが一般的だ。
カリーナは七級なので、生産を生業とした流派を選ぶのが普通である。
たまに四級以上でも生産を選ぶ物好きもいるが、それは求められる能力を満たしているから可能なのであって、逆に五級以下の者が戦闘を生業とする流派に入れることはない。
だがカリーナは、どうしても戦闘を生業とする流派に入門したかった。
成績を上げていけば途中で流派を移ることもできるが、最初に生産系の流派に入ってしまっていると、後から移籍を希望しても同じ生産系の流派しか選べなくなるからだ。
つまりここで戦闘系の流派に入っておかないと、もう二度と挽回のチャンスはなくなってしまうのである。
彼女も、自分の力が足りないのは十分に理解している。
だが今の劣等生のまま流されては、カリーナの存在はラッセル家の汚点となってしまうかもしれないのだ。
ラッセル家の……自分を大切に育ててくれた、大好きな父の血筋が疑われることになるのだ。
魔法使いとしての力がステータスになる貴族社会にて、最悪ともいえる七級の娘が生まれてしまった家の血となれば、自分どころか妹すら婚姻を結び難くなるだろう。
社交界でも、家族は肩身が狭い思いをすることになる。
それはつまり、カリーナの存在が家族に拭えない呪いをかけるということだ。
彼女が生まれてしまったこと自体が、間違いになってしまうのだ。
だからカリーナは、死に物狂いで努力した。
寝る時間を極限まで削って、魔法の勉強や修練に打ち込んだ。
若い時にしか味わえない、華やかで甘酸っぱい学生生活を送る同級生たちを尻目に、他の全てを捨てて魔法のみに時間を費やしたのだ。
努力の量でいえば、この学院の生徒で彼女が一番だろう。
だが、結果の伴わない努力などに意味はない。
地獄のような一年を経た後、彼女に下されたのは七級の劣等生という現実だった。
でもカリーナは、まだ諦めてはいない。
いや、自分から諦めるわけにはいかなかった。
カリーナが強く手を握りしめて黙ったことで、二人の間にどこか気まずい空気が漂う。
だがそんな空気を破るようなタイミングで、銀髪を顎の下あたりで切り揃えた碧眼の少女が、ヘレナとは反対側になるカリーナの隣に腰を下ろした。
「二人とも、おはよう」
「エミリア、おはよう」
「おはようございますわ」
どこか眠そうで、表情の変化に乏しい印象を受ける少女……エミリアが、近くの席の二人と挨拶を交わす。
「エミリアは、いい加減入門先を決めたの? 見たところ、記章は付けてないようだけど……」
カリーナの時と違って、ヘレナの声が少しだけ刺々しくなった。
エミリアも、カリーナと同じくどこの流派に入るか決まっていなかった。
だが彼女の場合は、成績が原因で入門先が決まらないのではない。
むしろエミリアは、魔法学院始まって以来の天才と謳われるほどの優等生だ。
彼女が弟子入り先を決めていないのは、ただ人付き合いが面倒くさいという理由で、今まで先延ばしにしていただけの話である。
カリーナやヘレナといった例外を除いて、エミリアは極度の人嫌いなのだ。
「うん。昨日、決まった」
「どこに決まりましたの?」
「ハイゼンベルク流」
「ええっ!?」
「まあ……」
エミリアが口にした流派に、カリーナとヘレナは感嘆の声を上げた。
ハイゼンベルク流といえば、ごく一部のエリートしか入れない名門中の名門として有名なのだ。
しかも、これまで一年生で入門できた生徒は皆無だった。
ハイゼンベルク流には、特に優秀な成績を残した上級生が学院長からの推薦を受けて、引き抜きという形で入門するのが通例だったのである。
つまり一年生で入門してみせたのは、エミリアが史上初ということになる。
「流石は、エミリアですわ」
「凄いよねぇ……」
「まだまだ足りない。私の夢は、特級魔法使いだから」
彼女の発言に、カリーナとヘレナは言葉を失う。
特級魔法使いとは、一級魔法使いの上に存在するランクだ。
その位を授かった者は、一国の王よりも強い発言力と待遇が、天使より約束されると言われている。
特級の位にたどり着いた者は、世界中を探してもたった三人しかいない。
魔法の扱いに長けた種族の中でも飛び抜けた力を持つ、エルフ族の女王。
魔族でありながら地上に住み、人間側に味方して魔王と戦ったとされる吸血鬼のお姫様。
そして人間の身でありながら天使や魔族の力を凌駕し、魔王を討ち滅ぼしたとされる伝説の魔法使い、アデル・ラングフォード。
皆が皆、歴史に名を残すような傑物ばかりだ。
それぐらいでないと、天使から特級の位を授かることはないのだ。
普通なら、そんな魔法使いになると宣言しても、誰もが子供の夢だと言って笑うだろう。
だがカリーナは、エミリアならばもしかして……と思ってしまった。
と同時に、強い羨望と嫉妬を覚える。
信じられないほど大きな目標を見据える友人を見ていると、人並みの貴族であることも分不相応だと罵られる自分が、どうしようもなく惨めに思えたのだ。
──今日こそは、せめて普通の貴族になろう。
才気溢れる友人を眩い思いで眺めながら、カリーナは強くそう思った。
だが、その意気込みも虚しく、その日もカリーナの弟子入り先が見つかることはなかった。
<<つづく>>
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<<つづく>>
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