ゆらりゆらり
暗闇の中は何も見えない。視界は無い、もう眼なんか必要ない。足の裏の感覚は研ぎ澄まされていく。ジャリジャリ。足の裏で感じる感触は砂ではない、小さな石、小さな石が一面に敷き詰められてその上を歩いている感覚。痛くは無い、痛みは無い、ただ少しこそばゆい。足の裏が小さな石たちに洗い流されていく感覚。匂いがする、これはなんの匂いだろう? この匂いは嗅いだ事のある匂い、夏の日草むらを歩いた時に感じる匂い、草の匂い、むせかえる様な草の青い匂い。汗が喉を伝う、拭いたいが腕の感覚が曖昧で上手く喉を触れない、体が暗闇に溶け出して暗闇と自分の境界が曖昧になる。感じるのは足の裏の感触、むせかえる様な草の匂い、汗が伝う喉の痒み、暗闇の中でその三つの感覚だけ宙に浮き、それ以外は曖昧に、存在しているのだろうか? 自分は存在しているのだろうか? 今存在しているのは足の裏と、鼻と、喉だけではないのだろうか? 前に進まなければならない、前に進むためにこの暗闇に足を踏み入れたのだ。前に、前に、ただただ前に。ジャリジャリ。足の裏の感覚はあるが耳で小石が擦れる音は聞いていない。何も聞こえない、音は無い、もう耳なんていらない。「いっては駄目」。肉片が話しかけてくるが聞こえない。聴覚はない、何となく肉片の存在を暗闇の中に感じるだけ、唯それだけ。俺はどれだけ歩いたのだろうか? 何時間も何日間も歩いた様な気もするがもしかしたら数分歩いただけかもしれない、時間の感覚もない。長い距離歩いたかもしれないがまだ数メートルかもしれない、距離の感覚もない、疲労もない、そして諦める心すらない。折れる心がないから、心が折れない、いつまでも歩き続ける、歩き続けられる。空腹もない、喉の渇きもない、焦りや焦燥感もない、ただあるのは前に進まなければならないという使命感と欲求だけ。精神の安定もない、精神の乱れもない、そもそも精神が無い。この暗闇の中に存在が許されるのは足の裏と、鼻と、喉だけ。目の前に光る物が見える、薄い青い光、弱い、弱い、闇との境界が曖昧な弱い光。視界が生まれる、眼が必要になる、俺は目を細める、青白い光の中心には焼け爛れた一匹の野兎が腹を上に向け絶命していた。駆け寄る、両手ですくい上げる。腕の感覚が戻り、腕が暗闇から切り離される。兎の口が動く。カチカチカチカチ。前歯を噛み鳴らす、死んでいる兎が前歯を噛み鳴らし俺に忠告してくる。「この先鰐に会ったら気をつけろ、奴等俺の皮を剥いでこんな姿にしちまった」。カチカチカチカチ。前歯が鳴り、兎はもう一度絶命する。もう前歯は鳴らない。もう兎の体は光らない。俺は焼け爛れた兎の死体を胸に抱き、前に進み続ける。生温かい。風は全くない、汗だけが体中をしたたる。兎は死んだまま動かない。こう暑くては兎の死体が腐ってしまうかもしれない。胸に抱き匂いを嗅ぐ。血の匂い。草の匂いではなく血の匂い。鼻いっぱいに広がる豊潤で残酷な匂い。この野兎は人生を全うしただろうか? 志半ばだったのではないだろうか? 兎も成仏すれば天界に上げてもらえるのだろか? まあいい、俺は兎に知り合いがいないけど、きっと天国には行けるだろう。兎の亡骸を海に流す。無数の鰐が兎の亡骸を引き千切り、砕き、食らっていく。一匹の鰐が海辺に近づき話しかけてくる。「お前は向こう岸まで行きたいかい」「向こう岸には何があるんだ?」「何もないよ、ここと同じ暗闇だけさ」「その先は?」「その先も同じさ、ここに有るのは暗闇だけ、お前の行き先は向こう岸ではないのだろう?」「俺の行き先を知っているのかい?」「知っているさ」「何処だい?」「あそこさ」。鰐は前ビレで薄明かりのドアを指さす。
※本作はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。
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