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【1】

 おれは立ち止まったりしない。立ち止まって考える事は全てが後悔だし、後悔のあとに残るのは絶望だし、絶望のあとに残るのは空っぽで無能な自分である事を知っているからだ。立ち止まらなければ前しか向いてないわけだし、後ろ向きに走る奴はいないし、いるかも知れないがクルパーだし、クルパー呼ばわりは願い下げだ。おれは全速力で走ってきた。後悔しないように、絶望しないように、自分が無能である事を自分自身で確認しないように、おれはおれの人生を全速力で走ってきた。おれが思うままに走ってきた。おれはその事に後悔しない。何せ後悔しないために走ってきたのだ、後悔などするはずがない。
 おれはおれの思うがままに、おれの信念のままに、おれが大切と思うモノのために、何者でもないおれがおれの思う信念のために。信仰のために。おれに信じる神はいない、神はきっとこの世にいない、まぁ当たり前か、神がいるとしたら雲の上か。
 今から始まるのはオチもないくだらない話。神もなく、救いもなく、そもそも救いを求める人なんかでてこないそんな話だ。
 神なんかに用はない。神は何もしないで祈られてればいいのだ。


 おれは朝キッチンで目を覚ます。2Kのクソみたいに狭いキッチンは、床が堅く、ディスカウントショップで買ったうすうすの3000円敷き布団では余りにクッション性が弱く、まるで苦行中の修行僧のように、カチカチの干からびた野良犬の死体のように全身の関節が固まったまま目を覚ます。
 体が痛い。毎朝痛い。腰と背中と胸と膝と首が毎朝痛い。すぐに起きあがれない、まずは何回か狭い布団の上で寝返りをうつ。次に足と手の指を二十回グッパして、首と足首と手首を二十回ぐるぐるする。次は膝と肘、ここで大抵の人間はイキナリ伸ばしてしまい激痛を味わうことになるのだがクレバなおれは違う。まずは曲げるのだ。限界ギリギリまで関節を曲げる。曲げてゆっくり伸ばす、曲げてゆっくり伸ばすを二十回ほど繰り返すとあら不思議、膝と肘はかなり百八十度に近い角度まで伸びるようになる。まぁ完全には伸びきらないんだけど。そしてここからが大切な朝のメインエベントだ。おれは仰向けになり両足を天高く突き上げる。腕は頭の後ろで組む。準備完了、ゆっくりと膝を伸ばした足を頭方向に倒していく。腰が上がり、背中が上がり、布団についているのは、組んだ両腕と後頭部だけだ。きっと横から見るとカタカナのコの字のように見えることだろう。そうだ! これはおれが考え出したオリジナル、マウシングヨガ第一のポーズ、コの字のポーズである! これでかなり腰が伸びるはずだ、伸びてるはず……たぶん……。
 おれはそのまま三十秒静止し、足を天井方向により突き上げる。できるだけ高く、天井に爪先をつけるような感覚で足を伸ばす。接地している頭部の位置を後頭部から頭頂部にスライドさせる。今おれの体で布団に接地しているのは頭頂部と両肘の先端だけだ。つまりは変速的な三点倒立である。膝を出来るだけ真っ直ぐ伸ばし、足首を底屈させ足の指をできるだけ握り込む。まるで拳のように、サザエの様な拳のように。正面から見ると曲げた両腕がマタンキに。中央、体の部分が力漲る御神木に見えるはずである。

 これがマウシングヨガ第二のポーズ、そそり立ちのポーズである!

 自分の体全体で宇宙を感じる。頭からは大地のパワーを、そそり立った足先からは宇宙のパワーを吸収しその全てをおれの中心部、魔短騎にそそぎ込む。
 感じろおれのコスモ! 開けおれのチャクラ! 出てこいおれの七色オーラ! さあこい!!
 ダン! 
「何やってんだバカが! 朝っぱらからそそり立ちやがって! そんなに曲芸が好きならサーカスに売るよ! 家賃だよ! 家賃払えってんだよ!」
 開いたのは玄関で、出てきたのは大家のババアだった。
 勝手に玄関を開け、仁王立ちしている大家は140センチ80キロと目算される小さな巨体を揺すり、ジャバ・ザ・ハットクリソツな顔を振るわせながら右手を出し唾を飛ばし金を請求してくる。年は分からん、人外すぎて分からん。
 なえるわー、マジこのババー肉眼で直視すると寿命が縮むわー。この精神状態ではそそり立っていられない。バフンと大の字になり、起き上がり、立ち上がり、ババアのいる玄関に向かう。まー歩いて三歩だけど。
 ババアと正面から対峙してみるとこの人外から異様なオーラを感じる。正面に立つと脳天が丸見えだが、こんな有利な体勢でも全く勝てる気がしない挑もうという気すら起きない。は! これが武の極み! 戦わずして勝つということなのか! ババアその武の極み、よく観察して勉強させていただきますぞー。うぇ、駄目だ直視してると吐き気が催してくる。
 何故10月なのにムームー一枚なんだ?
 何故極彩色のムームーなのに乳首が透けてるんだ?
 何故薄着なのに靴下は毛糸なんだ?
 何故小脇に猫を抱えているんだ?
 非常食なのか?
 あまりのカオスに鼻の中がツーンと痛くなり、頭がクラクラしてくる。まさしく奥義、人外の奥義、人間には真似できない。
「金だよ金! 家賃だよ家賃! 金払わないんだったら出てっておくれ!」
「おいババア。おれは不動産屋に家賃を毎月払っている。給料から引き落とされてる。テメーの手元に金が入んねーんなら不動産屋に言いな、おれは間違いなく家賃を払ってるぞ」
「何言ってんだい! あんなボッタクリ不動産屋! 家賃はアタシに直接払いな! それ以外は認めないからね!」
「ババア、そんな話は不動産屋としろ! とりあえず今月分は払ったからな! これ以上おれの視界の中にいるな! 失せろ人外!」
「何言ってんだい! 認めないからね! 家賃未納で訴えるからね! 裁判所が差し押さえに来るからね!」
「失せろ人外!」
「訴えてやる!」
「訴えられるモンなら訴えてみろ! こっちもババアの外見で精神的苦痛を受けたって、ババアが外歩いてその姿さらしてるだけですでに傷害事件だって、刑事、民事両方で訴えんぞ! 失せろババア! 次に会うのは法廷だ!」
「ああ! 次に会うときは法廷だからね! せいぜい良い弁護士でも用意しときな! なんだい人が親切で手紙を持ってきてやったのにクソみたいな男だねあんたは! あんたのお袋さんは違ったよ! いつでも私に優しかったよ! ホントに良い人間はみんな早死にしちまう、生き残るのはあんたみたいなクソばっかりだ!」
「テメーだって長生きだろうが! おれがガキの頃からババアだったくせしやがって! 失せろ人外! 保釈金と慰謝料用意して待ってろ!」
「あー! あー! あんたこそ賠償金用意するために腎臓の買い取り先でも探しときな! クソやろうが!」

 フミー!

 猫がおれを威嚇するように一唸りしたのを合図に人外は手紙を投げ捨て帰っていった。階段を下りる人外の背中を蹴り飛ばし、殺してやろうかと思ったが、その後ろ姿から漂うもの凄いオーラでおれごときが全く勝てる気がしないためやめておいた。それよりなんだ手紙って? あの人外勝手におれんちのポストでもアサったか? ババアが投げ捨てた封筒を拾いあげ納得。宛先の住所がおれとネーネが前に住んでいた借家の住所だ。
 おれとネーネが赤ん坊の時からお袋さんと親父と四人で住んでた借家もあの人外の所有物だった。今は空き家。おれ達が越してからずーと空き屋。だからそこに届く郵便物は100パーに近くウチへの郵便物だ。差出人を見る。「宝 千歳」全然知らん名前だ。千歳? 女か? いや爺でもこんな名前の奴とかいそう。受け取る人間の名前を見る。「宝 愛咲様へ」あーこの名前なら知ってる。正確には半分だけ知ってる。名字は知らないけど、名前は知ってる。
 振り向く。おれと地上最強の生物人外との死闘をパジャマのまま奥の部屋から覗いていた役立たず四匹が、四匹とも猫みたいに四つん這いで、重なり合って、計八つの目がおれのことを見ている。人外が帰ってから顔だしやがって、ホントに使えない奴らだわ。
「ネーネ手紙」
 おれはネーネに手紙を投げる。
 ネーネはキョトンとした顔で宙をヒラヒラする手紙に両手を伸ばす。
 愛咲(あいさ)、愛が咲く、空っぽの頭の中に愛を詰め込んだ天使、ネーネの名前だ。

×××××

 おれは朝飯を作っていた。今日はパン。卵を両面焼きサニーサイドエッグにする。コンロの魚焼きでトーストを2枚づつ焼く。レタスは千切り。ハム2枚、レタス、卵2コをトーストに乗せ、オーロラソースをかける。もう1枚のトーストにバタを塗り、はさんで斜め斜めで4分割に切る。一人の皿に小さなサンドウィッチが4つ、コーヒとグレフルジュース。たいしてゴーセーなわけでないけどこれでパンは10枚、ハムも10枚、卵1パックにレタス半玉、グレフルジュース1リットル1パック、育ち盛りの学生組はコーヒを飲まないため、三人で牛乳を1リットル1パック。これだけの食材が朝一食で消える。
 ネーネはコーヒに砂糖を大さじ4杯、メルクもタップリ入れるから牛乳は一日で合計2パック半消える。砂糖の減りもやけに早い。誰もいない時ペロペロネーネが舐めてるんじゃないの? それぐらいしそう、ネーネだし。
 ハッキリ言って食費がとんでもない。給料のほとんどが食費と家賃に消え、その他残った微々たる金銭が学生たちの雑費に消えていく。貯金も出来ない。反対に貯金が少しづつ減っている。マジ将来が不安。まー牛乳は良いけど、育つかもしんないジャン? 乳とか乳とか乳とか乳とか。
 おれは老後の資金を切り崩しながら作った朝食を食卓に並べる。ベランダで美月さんがステフにラジヲ体操を仕込んでいる。
「朝ご飯出来ましたよ~。食べる人キッチンに集合! 5、4、3、2」
「待ってください! 今! 今行きます!」
 マコチンが高速ハイハイで食卓に這い寄ってくる。
「おなか! おなかすいたお!」
 ネーネが高速回転で食卓に転がってくる。
「……今……行きます……」
 ステフがラジヲ体操ごときでくたくたの体を引きずり食卓にすり寄ってくる。
「朝ご飯のご用意ありがとうございます。今行きます」
 美月さんが照れくさそうに少しはにかんだ笑顔
 で食卓に歩いてくる。

 みんなで食卓を囲み、みんなで頂きます。ありふれた日常、ありふれた食卓。でもこんな今も良い、金が続く限りは。ネーネは手紙をハムハムしてる。中を開けていない。開けても読めないし、手紙が来たことを大層喜んでいるようだ。誰だろ「宝 千歳」って? 誰でもいいか、ネーネを悲しませる人間だったらケツの穴から腎臓引きずり出して二つとも踏みつぶしてやるだけだ。
 ジャリっ子どもとネーネに手を振り、靴を履き、ドアを開けて玄関を出る。右手首にはめていたゴムで髪の毛をポニテに結ぶ。

×××××

 朝、アパート、「霞荘」
「私はフェスの準備があるから先に行くから。まこととステファニーは遅刻しないように、行っています」
 美月はマウスを見送った後、すぐに制服に着替えアパートを出ていった。
 フェス。
 鷺山女学園秋の最大行事「鷺山フェスティバル」の事である。通称「鷺フェス」。生徒とその家族、学園関係者、そして生徒一人に二枚だけ配られる友人チケットの持ち主だけが入場を許される禁断のお嬢祭り。美月は推薦によりその実行委員に名を連ねていたのである。
 スレンダーボディとキツメの美しい顔を持ち、学問優秀(学年総合成績三位)、運動神経抜群(中学時代にハイジャンで全国二位)、何気に優しい美月は後輩女子達のドストライクであり異常な人気がある。なかには学園の花、鷺女の象徴、クウィーン・オブ・スクールなどと呼ぶ生徒がいるくらい。非公式ファンサイト『美ネエ様ナウ』に後輩女子の八割が登録し、美月の写真入りメーリングリストを毎週心待ちにしてしまうくらい。美月が戯れ言で始め、殆ど呟かないツウィートをほぼ全後輩がフォローしてしまうくらい人気がある。
 美月の存在はただでさえ注目されてしまうし、話題になりやすい。
 なので美月は実行委員になることを当初から拒んでいた。
 まず暇がない、満の店での仕事もあるし、家ではマウスをサポートし、働かない三人の面倒をみて教育、家事と大忙しである。とても毎日学校に残り「鷺フェス」についてアレコレ考えている時間はない。
 そして目立ちたくない。一人の男性の家に学園の生徒三人が住んでいるのだ、学園側は黙認しているが何かのキッカケで生徒に知れればたちまち噂が広がり、今の生活が続けられなくなってしまうかもしれない。コレは何としても避けたい。
 最後に恥ずかしい。実行委員は後夜祭の時全校生徒の前で一人一人フェスの総括をしなければならない。美月は人前で何かをすることが嫌いだ。多くの視線に晒されると緊張して自分の体が制御できなくなってしまうあの感覚が嫌いだ。誰も自分に注目しないで欲しいと思う。自分のことを考えてくれるのはマウスと、満と、共に暮らす家族だけで充分だ。
 美月の周りに人だかりができるような事はない。少女達にとって美月は観賞用であり、憧れであり、深窓の令嬢であり、神であるから崇拝し祭り上げる事はあっても、決して気安く話しかけられる存在ではなかった。また気安く話しかける人間を神への冒涜とし、攻撃対象にした。そのため美月の周りは人が近づかず、友人と呼べる人間は寄宿舎で同室だった佐治まことと頭峰登喜子、一緒に暮らしているステファニー・ブラックマンしかいない。
 強いカリスマ性は時に人を惹きつけない。
 女神にとって学園は孤独でつまらない存在でしかない。
 自分は迫害され虐められてるとすら感じる。
 今回の実行委員への推薦だって虐めを受けているようにしか感じない。
 学園の花は美しく咲きすぎる為に孤独で、孤独故にその美しさを引き立てていた。
 そして美しい花は嫌々ながらも任された仕事はやり遂げようと努力してしまう生真面目な少女であった。
 美月はなんだかんだ言いながら、実行委員をかなり本気で頑張ってる。

 美月は朝、嘘をついた。いや嘘というよりは意地悪をした、とでも言えばいいのか。
 美月は朝マウス達が話していた女性「宝 千歳」を知っている。そのことを進んで話さなかった。何故だか自分でも分からない。ただ話すべきではないような気がした。いや違う、話したくなかったのだ。何故だろう? 何故話したくなかったのだろう? 何故だろう? 
 美月の思考は高速回転し始めた。電車に乗り、山手駅で降り、学園に向かうまだ人が疎らな通称乙女坂と呼ばれる急坂を登りきる辺りで回答にたどり着いた。
 いや、回答が待っていた。
 坂の上、校門前に一人の女性が立っていた。彼女は校門の前で登校してくる生徒たちに優しく、挨拶をしていた。
 烏の濡れ羽色と形容されるにふさわしい光沢のある美しい黒髪。
 大きく前にせりでた胸と蜂の様にくびれたウェスト。
 長く細い足、白く細い腕。
 漂白したように白く、優しく、軟らかく、可愛らしく、少し小皺があるが、それすら美しく見える聖母の様な顔立ち。
 今年四十五歳になるはずだが全く美しさが陰らない。
 そう、年を取らない。年齢を重ねても美しさが色褪せない。
 時間で美しさはほころびない。
 まるで、二十七歳なのに二十歳前後にしか見えないお姉さまのように。

 小柄な体から溢れんばかりのフェロモンをまき散らす女性が立っていた。
 美月の担任「宝 千歳」が立っていた。

「おはようございます、豊島さん。あっ! そうだ! もう豊島さんではないのでしたね、ごめんなさい豊島さん。あっ! また言っちゃった! ホントに先生グズでゴメンね、えーと、えーと」
「力丸です先生。力丸美月です。豊島でも力丸でもかまいません、どうせただの名前ですから」
 千歳はにっこり笑った。
 軟らかく、優しく、可愛らしく少女のように美月に向かいにっこりと笑った。
「それじゃあ美月さんて呼んでいいかしら? 美しいあなたにピッタリの美しい名前。一度呼んでみたかったの。呼んで良い?」
 今度は上目使い、子猫のように可愛い上目使い。
 美月は確信する。自分が何故あの時この女性を知っていると言いたくなかったのか。それはこの女性をマウスに会わせたくなかったからだ。この完全無欠の女子力、きっと天然なのだろうが天然であるだけたちが悪い。ホントに可愛い。女で、年下で、生徒である美月の目から見てもとてつもなく可愛く、美月は十七年生きてきた中でナンバーワンで、こんなに可愛らしい女性を見たことがない。

 危険! この人は危険! この人はマウスに会わせられない! 絶対会わせてはダメ! 絶対にダメ! ダメったらダメ! 本当にダメ!
もし会わせたら私のマウスを捕られてしまうかもしれない! 


<つづく→ファンダ・メンダ・マウス2.25 Don't get angry Don't cry(2)へ>


※本作はフィクションです。実在の人物・団体とは一切関係ありません。


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