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ミライザ・エステルはよく働く女だった。朝はコーヒーショップでウェイトレスをし、夜は0時まで車の製造工場でプレス機械の前に立っていた。
ミライザがよく働くことには訳がある。
ミライザには両親がいない、生活保護と奨学金でハイスクールは卒業できたがお金がかかる大学進学は諦め働くことを選んだ。両親がいない理由はたいしておもしろい話ではないのでここに記することはない、それより重要なこと、彼女がなぜよく働くのか? その答えは彼女の一人だけの家族、八歳離れた弟レディオ・エステルが天才児であることに由来する。
レディオは天才児だった。八歳の時に小学校の過程を全て終了し、十二歳のときには大学入学を果たせるだけの単位を全て取得していた。大学では情報処理技術と言語解析を専攻し、いくつかの論文は科学系雑誌でも取り上げられ、デトロイトの低所得者層から出た天然物の天才と一部では持て囃されたりもした。
ミライザはレディオが大好きだった。いつもパソコンの前でキーボードを打っている横顔が知的に見えて大好きだった。生意気な口ぶりで食事の最中に情報の拡散と収束について熱弁する口元が可愛くて大好きだった。頭のいい弟がいて誇りだったし、レディオを扶養していることに心から優越感を抱いていたし、なによりレディオが毎日、自分のベッドに潜り込んで胸に顔を埋め、スヤスヤ寝息を立てるその瞬間が大好きだった。スヤスヤ寝息を立てるレディオの生を感じると、こんなに可愛らしい生き物がこの世にいていいのかと、自分の手元にいていいのかと、こんな幸運の中にいていいのかと、幸せを感じすぎて恐怖するほどだった。
だからミライザはよく働いた。朝から深夜まで、少しでもレディオにいい暮らしをさせたいと、彼の才能が、輝かしい未来が、その強い自尊心が、貧困によって奪われることがあってはいけないと、彼女はレディオのため朝も夜も毎日毎日レディオのために働いた。
ミライザ・エステル、彼女はよく働く女だった。
レディオは自分の歳が離れた姉に不満があった。
毎日毎日朝から夜中まで働き、自分と過ごす時間を蔑ろにしているのではないかと思っていた。
レディオは小学校にほとんど通っていないし、大学にもほとんど行っていない。大学の講義は自宅でネットを使い修学することができたし、研究もほとんどが自宅で行うことができたので外出する必要がなかった。
なのでレディオには友人はおろか知り合いと呼べる人間はほとんどおらず、頭脳は明晰でも心は子供のレディオは人との接触に飢えていた。
愛情にも飢えていた。
だからレディオは姉にもっと自分と過ごして欲しかった。甘えたかった。愛情をもっとわかりやすい形で示して欲しかった。もっとキスをして欲しかったし、ハグをして欲しかったし、話を聞いて欲しかったし話を聞きたかった。
レディオはまだ子供だったのだ。
レディオはここで一つに真理に到達する。
お金だ。
自分が姉と一緒にいられないのは姉が働いているからだ。
姉が働いているのはお金を得るためだ。
ならばお金があれば姉は働かず、いつでも一緒にいることができる。
お金だ、お金があれば姉の時間を買うことができる。
お金だ、お金があれば姉の愛情を買うことができる。
お金があればなんだって買える。欲しいものがなんだって手に入る。
レディオは人間社会の持つ一つの真理に到達した。お金だ。お金が全てを解決してくれるのだ。
なのでお金を手に入れることにした。
まず彼が目を付けたのは地元デトロイトのクラブシーンでまったく注目されていない一人の白人ラッパーだった。情報の拡散と収束、彼が一番得意とする分野でこの一人の白人ラッパーをスターダムに押し上げることにした。
この白人ラッパーは酷かった、彼のリリックには聞くべきところはまるでなかった。韻が踏めない、リズムが悪い、ダブルミーニングなんて高嶺の花で一つ一つの単語がバラバラすぎて何を言いたいのかまるで分らなかった。滑舌が悪すぎて何を言っているのかがまるで分らなかった。
情報の拡散と収束。
レディオは情報を操作し操りコントロールすることでこの白人ラッパーを全米一のスターに押し上げた。使ったのはインターネットだった。
情報の拡散と収束。
まずネットにアップしてあったこの白人ラッパーの作りの悪いライブプロモをデトロイトクラブシーンコミュニティーサイトにあげ、さんざっぱらこき下ろした。
「デトロイトの恥」
「猿まね白人ヒップホップを冒涜」
「撃ち殺される覚悟はできてるのかクズ」
「ミスタートラッシュ」
「生まれつきの底辺」
最初はプロモを見てレディオの意見に賛同する人間が多く集まった。皆口々に白人ラッパーの悪口をコメント欄に書き連ねた。
コメント数が多くなってきた頃を見計らってレディオは次の段階にシフトする。レディオは一つのコメントを載せる。
「このクズは白人なのにヒップホップをしようなんて頭がおかしいんじゃないか?
白人みたいなクズは家でカントリーでも聞いてダンスホールでポルカでも踊ってろよ。
本当にイカしたものが白から出てくるはずがない。
白は死ね。
白は家でマスでもカイてろ」
と。
炎上した。もう誰もこの白人ラッパーの技量の話はしなくなった。白か黒か、論点は完全に本質から離れ、この白人ラッパーを攻撃する黒人と、擁護し黒人を攻撃する白人とで真っ二つに割れ日々汚い言葉で罵り合うようになった。プロモのコメント件数は鰻登りで一週間も待たずにデトロイトクラブシーンの話題に一つになった。白人ラッパーの出演するクラブイベントでは大勢の人間が集まり彼がステージに上がると白人たちと黒人たちは彼のリリックなど聞かずに殴り合い罵り合い血を流した。その抗争見たさに客が集まりこの白人ラッパーの出演するイベントはいつも人で埋め尽くされ、彼はデトロイト一客が呼べるラッパーになっていた。
レディオは次の段階にシフトする。
レディオは情報をリークし始める。この白人ラッパーがデトロイトの貧しいトレーラーハウスの生まれであること。家族から虐待を受けいまだにその傷が癒えきっていないこと。小さな妹がいて彼女を育てるために彼はラッパーになったこと。強い信念のもと新しい音楽表現として今のスタイルに行きついたこと。
レディオは本当の情報と偽の情報を織り交ぜ、情報をネットの海にリークした。
白人ラッパーはまたその技量とは関係ないところで賞賛され擁護され罵倒され攻撃され彼の名前はデトロイトだけには収まらず徐々に全米に広まっていった。
そしてレディオは最終段階にシフトする。
「彼は『ランジーン』否定主義者だ」
レディオは白人ラッパーが『ランジーン』を批判するリリックを集め、PVを作りネットの海に放りこんだ。
今アンダーグランドシーンでは『ランジーン』をdisるパフォーマンスは人気があった。誰もが好んで『ランジーン』を馬鹿にしたリリックを口汚く歌っていた。自分たちは底辺の収入、底辺の生活をしているのに、奪われることを恐れて、奪うことを躊躇せず、生きるために生きる生活をしているのに、倫理もなく、道徳はなく、20ドル札一枚のためにいつ風呂に入ったか分からない中年にフェラチオする生活を強いられているのに法律で保護され、働かずとも生活でき自分の妄想の中にだけ生きている『ランジーン』は彼らの敵であり白人には黒人よりも、黒人には白人よりも、貧民には金持ちよりも憎い存在だった。
だから誰もが『ランジーン』をdisっていたし決してこの白人ラッパーだけが特別な存在だったわけではないが、タブーとされていた『ランジーン』批判を堂々と歌う白人ラッパーのリリックは、その技術的価値が底辺であるにもかかわらず全米で共感を呼び、彼は、反『ランジーン』思想のシンボル的存在に掲げられるようになった。
つまりこの白人ラッパーは実力もスター性も何も持ち合わせていないのに全米で彼を知らない人間がいないくらいのスターになったのだ。
レディオの手によって。
レディオは実験の成果に満足していた、自分が作り上げた情報の拡散と収束が机上の理論ではなく実戦で通用することを証明できたことに満足していた。
レディオの考えはこうだ。
人間には思考による自由意思決定は存在しない、存在してもその選択肢はとても少ない。
人間の行動のほとんどは、外部から入力される情報によって決定される。
人間の行動は環境が決める。
情報の拡散と収束は大きなマスでも小さな人体でもそのパターンに大きな違いはない。
情報によって大きなマスの行動は支配できる。
一番原始的な脊椎動物であるナメクジウオは逃避反射でその行動を決定している。つまり動く方向を決めることに外的刺激が不可欠でまったく外的刺激を受けない状態にあるナメクジウオは行動をおこすことができない。つまりナメクジウオは自由意思の下行動しているのではないことが分かっている。
昆虫はそのほとんどの動作が反射により制御されている。昆虫も今置かれている状況から何かしらのアクションを起こすためには外的刺激を必要とするのだ。外的刺激がない状態で行動を起こすことはできない。ただナメクジウオと違う点は反射の種類が多様で、逃避反射のみで行動するナメクジウオより多種多様な行動様式を持っているだけのことで本質は変わらない。昆虫も自由意思の下行動しているわけではないのだ。
では人間はどうだろう? 人間は大きな大脳と広い皮質系を持っている人間はあたかも思考による自由意思決定を行っているように思われている。しかしレディオは人間は思考による自由意思決定をほとんど行っていないと考えている。
大きな脳を持った人間であっても思考により自分の行動を決めているわけではないと考えている。
自分で決めて行動したように思えても、その実、人間の行動は環境によって支配されていると考えている。
たとえば、
テーブルの上にマグカップに入ったミルクが置いているとしよう。
イスに座った少年は手を伸ばしマグカップを持ち、口まで運び、ミルクを飲む。しかしこの動作は少年の自由思考決定、意志によって行われたことなのだろうか?
少年は本当にミルクが飲みたかったのだろうか?
レディオは推測する。
レディオは因果も思考による自由意思決定も信じていない。ではなぜ少年はミルクを飲んだのだろうか? 環境だ、環境情報による意思決定が行われたのだ。つまりそこにミルクが入ったマグカップがあったから少年はミルクを飲んだのだ。それ以上のことはなく、それ以下のこともなく、ミルクを飲んだ事実はミルクがあったから行われた運動なのだ。
環境が全ての行動を決定する。
環境とは外的情報のことである。
だから外的情報を支配すれば行動を支配できる。
人体であっても大きなマスであってもそれに変わりはない。
それを白人ラッパーをスターにすることで証明した。
レディオは情報を操ることによって大きなマスをコントロールする方法をお金に変えることにした。
お金があれば欲しいものが手に入るからだ。
姉との時間も、姉から出る全ての愛情も、
お金で買えるからだ。
レディオは成功者になった。お金はレディオの才能に砂糖菓子に群がる蟻のように、腐肉に群がる蛆のように、美女に群がる男のように、金持ちに群がる美女のようにいくらでも集まってきた。
情報の拡散と収束、レディオはどんな下らない商品でもヒットさせられるヒットメーカーとしてアメリカ合衆国広告業界で成功した。
情報の拡散と収束、レディオの才能と真理は無限のお金を生んだ。
レディオは満足していた。レディオの姉ミライザは働くのをやめてくれたからだ。ミライザは毎日レディオの傍らにいてくれた、食事を作り、洗濯をして、掃除をして、話をしてくれて、話を聞いてくれて、夜にはベッドの中でレディオを抱きしめて眠ってくれた。
愛する姉はいつでもレディオに優しく、レディオだけを見てレディオだけの姉でいてくれた。二人はデトロイトを出てN・Yのハーレムにアパートを買い、そこで静かに、静かに、愛情の中だけで暮らしていた。
朝起きて二人で朝食を食べ、手を繋いで家を出る。地下鉄に乗り、メイシーズを覗き、フェアウェイで買い物をして昼食を食べる。映画を見たり、ぶらぶら散策したり、家に帰るとレディオは仕事をするためにキーボードの前に座り、ミライザは夕食を作る。
夕食は二人、大きなカウチに座り、膝の上にワンプレートを乗せてテレビを見ながら食事する。レディオとミライザにはお気に入りの番組があった。『ランジーン・デッド・ラン』だ。二人は月に一回放送されるこの番組を心待ちにしていた。特にミライザはかなり熱を上げていて、『ランジーン・デッド・ラン』の下部リーグである『ランジーン・セカンド』も『デッド・ラン・ルーキーズ』もチェックしていた。レディオが眠った後ミライザは一人起きてプロテクターに体を包んだ異能者たちのまるでSF小説の中のような狂乱のレースに酔いしれていた。
そんな生活が二年。
変化が起きたのはレディオが十六歳、ミライザが二十四歳の冬だった。
最初に気がついたのはレディオだった。
「ねえさん、寒いの?」
レディオはふわふわのセーターの袖から覗く姉の人差し指が小刻みに揺れていることに違和感を覚えた。室内は暖房が入っているが外は雪が降っている、自分もセーターを着ていて、暑く感じないぐらいだから、姉が室内でも、寒さを感じてもおかしくはない室温なのかもしれない。
「ねえさん、寒いの?」
「寒くはないわよ、買ってもらったセーターはとても軽いし、とても暖かい、ありがとうレディオ、このセーターはとても暖かい」
「でも、指が震えているよ?」
「少し、疲れているのかも。昨日の夜、遅くまで『ランジーン・セカンド』を見ていたから、今日は早く寝るから大丈夫よ」
「本当? 体、どこか、辛くない?」
「大丈夫、どこもおかしくないし、辛くもないわ。さぁ、レディオ、寝ましょう」
二人でベッドに入りレディオはずっと姉の右手人差し指を握りしめていた。ミライザは笑顔でレディオの頭を撫でて、抱き寄せ、額にキスをした。ミライザが眠っても、レディオは眠れなかった。聞こえる姉の寝息と、小刻みに震え続ける姉の人差し指。レディオの脳内は恐怖で爆発しそうだった。振戦を起こす疾患名を片っ端から頭の中に羅列していた。
死が、姉の中に存在する死が怖くて怖くて怖くてレディオは死んでしまいそうだった。
レディオが最初に疑ったのは若年性パーキンソン病だった。姉の人差し指は親指と擦れカサカサカサカサ音を立てることが多かったので、この動作が丸薬丸め運動ではないかと推測した。しかし病院で検査した姉の血液内にはL‐ドーパが十二分に含まれており、黒質も、小脳系全体も変異も梗塞も起こしてはいなかった。脳映像系検査は全て行い、脳波、PETまで行ったが姉の脳にこれといった変化は起きていなかった。脊椎の変形もなく、運動神経障害でもない。ジストニアやジスキネジアのような神経系疾患でもない、姉の体は健康だったし、姉の精神も健康だった。
でも右手人差し指の振戦は止まらず、より大きく複雑な動きを見せるようになっていった。レディオはもう気がついていた、日に日に表情を失い、言葉数が減り、四方八方をキョロキョロキョロキョロ目で追う姉の姿にレディオは気がついていた。
姉は病気ではない。
姉は『ランジーン』になったのだ、と。
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