翌日の学校が終わった後、クロはカバンを持って、再び『呪いの泉』へと足を運んでいた。
並ぶ木々はすっかり葉を落とし、乾いた土の上には枯葉が一面に敷き詰められている。クロは無言でざくざく枯葉を踏み分けて、目的の場所へと向かう。
昨日と変わらずに陰気な雰囲気をかもしだす、池の淵に立った。
空気が冷たくて、頬が凍りつきそうだった。巻いていたマフラーに顔半分を埋め、半眼に池を見下ろす。
「いるんだろ、緑池」
クロが言うと、幽霊の緑池が、池の中ほどからむくりと姿を現した。
緑池はどんよりと黒雲を背負ったような表情で、昨日最初に見かけた時より、更に陰鬱な雰囲気だ。
「……藍子さんは?」
生気のない瞳が、それでもきょろきょろと周囲を探る。クロは深く白い息を吐き出した。
「俺だけだよ」
「じゃあいいや。さよなら」
「オイオイちょっと待てって。成仏の手伝いするって言っただろ?」
背中を向けて池の中へと戻って行こうとする幽霊の男子を、クロは慌てて呼び止める。そうすると、恨みがましい視線だけが振り向いてきた。
「藍子さんがいなきゃ、成仏できない。藍子さんを連れてきてくれよ」
クロは頭をおさえ、再びため息をついてしまう。
昨日あっさり藍子に振られた緑池は、どうやらまだ藍子に固執している様子だ。しかし昨日あれだけキッパリと拒絶の意志を示した藍子を、この場に連れてくるのは難しいだろう。
「藍子さんは、来ない」
だから事実をそのまま伝えるしかない。
昨夜少し藍子と話した。いくらか緑池に同情したクロは、演技だったら少しくらい付き合ってもいいんじゃないか、と譲歩案を出してみた。もちろん二人きりにするつもりはないし、クロもずっと一緒にいるつもりだった。しかし、藍子は困ったように笑うだけで、首を振るだけだった。
「藍子さんは、俺の頼みでも嫌なんだってさ。相当嫌われてんだろお前」
「じゃあ会いに行こうぜ!」
「お前人の話聞いてんのかよ。完全にフラれてんじゃん。諦めろって」
クロがここに再びやってきたのは、成仏するための別の方法を探そうと思ってのことだった。付き合うと言った以上は、最後までとことん付き合うつもりだった。大体緑池は藍子とは昨日初対面のはずだ。藍子以外にも彼がこの世に束縛される理由はあるはずなのだ、何かきっと。
「確かに恋人になるのは無理だ。あれから考えて、そう思った」
そんな緑池の言葉が聞こえて、クロは思考でうつむかせていた顔を上げた。
横を見ると、いつのまにか緑池が隣に立っていた。何故か爽やかに歯をきらめかせ、親指をたてている。
「一日考えて、身の程をわきまえてなかったと反省したんだ。謝りたい。心の底から、藍子さんに謝りたいんだよ僕は。土下座する覚悟だ」
「お前……」
緑池の瞳が、純真無垢にキラキラと輝きを帯びていた。
「お前ただ単に藍子さんに会いたいだけだろ」
「実はそうだ!」
「胸を張るな」
クロは緑池を半眼で見据える。緑池はちっとも悪びれず、笑顔のままだ。ため息ばかり出る。
「大体さ、お前ここから動くの無理だよ。この池に縛り付けられてんだから。なんでこの池なのかはよく分からんけどな」
「昔この池は『告白成就の泉』って呼ばれてたんだぜ! なんかご利益ありそうで素敵なパワースポットだろ☆」
「お前がここに居着いたせいで、その素敵なパワースポットもいまや無残な有様だな」
「フフフ」
「いや褒めてないし」
「とにかく藍子さん連れてきて! 『呪いの泉』でデートしようぜって言えばなんとかなるかもよ?」
「だからそれは無理だって」
「一目でいい、一目でいい。もう一回あのキレイな人に会いたいな~胸おっきかったな~なんカップあるんだろ~下着はどんなのつけてんのかな~やわらかそうだったな~かたくずれもしてなさそうだし、白いからもちもちしてそうだったな~」
「胸のことばっかじゃねぇか」
緑池の幸せそうな瞳は、完全にどこか違う場所にいってしまっている。
もしかして、もう一度藍子を見ただけでも成仏できるのではないか。そんな考えがクロの頭をよぎった。
見回すと、周囲はもう夕方の色だ。緑池に向けて、無造作に手を差し出した。
「分かった。連れてってやる。ただし遠くから見るだけだからな?」
クロが言うと、緑池がきょとんと目を丸くする。
「え? どうやって?」
「俺がお前に『接触』すれば、お前を『よりしろ』から引き剥がすことができるんだよ。夕方の間だけだけど」
「まじで!?」
「まじで」
クロが真面目な顔で言うと、見上げてきていた緑池が途端、目に見えてもじもじしだした。なんだか仕草が気持ち悪い。
「え、えっとじゃあ……失礼しますね」
そっ、と優しく手を握られて、寒気が全身をゾワワと駆け巡った。
自分から手を差し出したのだが、冷静に考えると男同士で手を繋ぐという行為は気色悪いことこの上ない。
クロは青ざめながら、テレテレと頬を染めている緑池を見遣る。
「なんだろうこの胸のトキメキ」
緑池が胸をおさえてぽつりと呟いた時、限界が訪れた。クロはさっと手を離す。
「その演出はさすがに気持ち悪すぎる。もう連れてくのはナシだ」
「嘘です! 調子ノリました! さっ行きましょうか、目指すは藍子さん!!」
焦った緑池に強引に手を取られ、ぐいぐいと引っ張られる。いつも引っ張るのはクロの方なのに、この幽霊はやはり無茶苦茶だ。
雑木林の中を少し歩いたところで、クロは足を止めた。
前から歩いてくる人物に気付いたからだ。
なんと、藍子が向こうから近付いてきている。きょろきょろと視線を巡らせている藍子は、まだこちらに気付いてない。
「あ、藍子さんだ……! やっぱり僕に会いに来てくださったんですね!」
「うわ、ちょ、お前手を離すなよ!? ヘタすりゃ消滅するぞ!?」
藍子に気づいた緑池がぽわ~んと表情を緩めて駆け出してしまい、クロも手を掴んだまま、慌ててその後を追う。
藍子もクロと緑池が走り寄ってきているのに気付き、顔を綻ばせた。
「クーちゃんいたぁ」
「どうしたんですか藍子さ」「藍子さん結婚してくれ!」「お前は黙ってろ」
「えへへ、緑池君、昨日はどうも。クーちゃんがお世話になってます」
緑池へと丁寧に頭を下げる藍子に、クロは苦虫を噛み潰したような顔になってしまう。おそらくクロのことを探しにここにやってきたのだろうが、緑池の気持ちを考えると、藍子がこれ以上関わってもいい方向に動かないように思える。
クロの『接触』で彼を連れていって、遠くから藍子を見せるだけにしようという企みだったのに、まさか本人がこの場に現れるとは予想外だった。
「クーちゃん今日掃除当番でしょ? 忘れてるみたいで、すぐに教室出て行っちゃったから、もしかしてここかなぁって」
「あ、ああそういえば忘れてました」
「メッ、だぞ」
「じゃあすぐに行くんで、とりあえず緑池戻してきます」
クロは作り笑いを浮かべ、さっさと立ち去ろうと緑池の手を強く引く。しかし緑池は藍子の前に立ったまま微動だにしない。
「藍子さん、昨日はすいませんっした!」
「あ、ううんううん。私の方こそごめんね?」
「僕、めっちゃ反省しました! 女神様に対して彼女になれだなんて、恐れ多い考えでした! でもどうしても、聖夜に彼女と過ごしたかったんです! その気持ちに偽りはありません! それで、ずっとどうしたら僕の願いが叶うのかなって一人で悶々と考え続けたんです! そうしたら、その答えが見つかりました!」
「お、おい」
弾丸のように喋り続ける緑池にクロは声をかけるが、緑池が止まる様子はない。
「あなたのおっぱいを生で見られたら、僕は成仏できると思います!」
直立不動で、堂々と言い切りやがった。
クロは目を剥いた。緑池と繋いだ手が怒りで震える。藍子は目を丸くしている。
「お願いします! おっぱい、おっぱい!」
「お前、バカだな!? いや知ってたけどな! そんなの無理無理無理! 無理に決まってるから! もうお前死ね!」
怒りのあまりに混乱し、すでに死んでる緑池に喚き散らすクロ。しかし緑池は全く動じていない。
「だって僕、純情な高校生だよ? 短い生涯、きっと女の子との素敵な思い出の一つもなく、死んじゃったんだよ? それぐらいの思い出くれたっていいじゃん?」
「ダメダメ」「うん、いいよ」
クロと藍子の声が重なった。クロは驚きに更に目を見開き、藍子を見遣ると、藍子は、すでに上着に手をかけていた。
「な、何してんの藍子さん!?」
「恋人になるのは無理だけど、そのお願いだったら叶えてあげられるから」
ほんにゃりと笑う藍子を、信じられない気持ちで見つめる。緑池君は感涙している。
「昨日のお願いはダメで、今日のお願いはいいってその基準が全然分からない!」
「うーん……? うまく言葉にできないけど、恋人になるっていうのは、恋をしなきゃいけないでしょう? 緑池君のお願いが『恋人になってほしい』ってことだったら、演技なんてしても彼の願いを叶えたことにはならないよ。緑池君を本当に好きな人じゃなきゃ、恋してる人じゃなきゃ、それは意味がないと思うの。でも『脱いでほしい』ってお願いだったら私にもできるから。その場で脱ぐのは簡単だけど、恋するのは難しいよね?」
「いやいや、簡単に脱いじゃダメです!」
現在極寒のはずなのに、クロの額に汗が吹き出す。しかしそんなクロの焦りを気にしていない藍子は、すでに上着を脱ぎ捨て、胸元のボタンへと手を伸ばした。細い指が一つ目のボタンをぷつん、と外すと、それだけではちきれんばかりの白い胸元がのぞき、隣の緑池がごくりと喉元を鳴らした。
どうしていいか分からずに、クロはただ立ち尽くす。
「ダメだって藍子さん!」
いくらダメだと訴えても、藍子の手が止まる気配はない。体質のせいで、直接触れて止めることができないのが歯がゆかった。こんな時に喚くことしかできない。
男子高校生二人が仲良く手を繋ぎ、何故美人教師のおっぱいを拝むことになったのか。そんなことを考えてじりじりと焦燥に駆られている間にも、藍子はボタンをつぎつぎ外していく。
淡い水色のブラジャーの、レース部分がちらりと見えた。
「……っ」
これ以上は無理だった。
クロは頭に血が昇った状態でダッシュし、おもむろに藍子の両手首をがばりと掴んだ。
「やっぱりダメだ! 耐えられない! 主に俺が!」
「クーちゃんっ?」
間近で藍子の丸い瞳が見上げてくる。折れそうに細い手首を強く掴み、藍子の動きを無理矢理止めてしまった。
すぐに血の気がざぁっと引いていく。しかしその手を離すことができない。
「俺、藍子さんが他の男の為に脱ぐなんて、絶対に嫌です! 脱がないって約束してください!」
くらくらする頭と混濁する意識で、一体何を口走っているんだろうと自分でもわけがわからなくなる。
「え、え、え? クーちゃん?」
「約束するまで離さない」
珍しく藍子が頬を染め、アワアワしだした。いつも自分から抱きついてきたり頭を撫でたりしてくるくせに、逆に積極的に近付かれると防御力が低いらしい。
「クーちゃん離さなきゃ気絶しちゃうよ……」
「そんなの気力で乗り越える」
とは言ったものの、どんどん意識に靄がかかっていく。
そう言えば、後ろにいる緑池の手を離してしまった。まずい。
肩越しに視線だけ振り返ると、緑池はとてもがっかりした顔をしていた。
まだその姿は薄まっていなかったので、ほっと息をつく。さっさとあのバカを連れて元の場所に戻らないと――
血の気が引いて頭はまるで回らなくなり、逆に視界はぐるぐると回りはじめる。そんな視界の端に、女生徒のスカートがちらりと飛び込んできた。この場に女生徒はいないはずだ。
「ふ、不潔、不潔よ……!」
キャピキャピした高い声が耳に届き、クロは反射的に藍子の手首を離した。
ぼんやりと滲んだ意識を無理に戻そうと頭を振りながら、声の聞こえた方を見る。
「や、安田さん」
安田さんが、少し離れた木の陰からこちらをのぞき見ていた。その表情は蔑みに満ち、瞳を潤ませている。
「結城君がそんな人だとは思わなかった……先生と、てゆーか自分のお姉さんとそんな関係だったなんて……っ」
「ち、違うんだ安田さん、なんでこんなとこに?」
一度意識が遠のきかけたせいで、足がよろめく。藍子はアワアワしたままだ。
「昨日リボンをここらへんで落としちゃったみたいで、それを探しに来たのっ」
「そ、そうなんだ。とにかくこれは違うんだ、誤解――」
「近寄らないで変態! 最低! 幻滅! もう結城君なんて大嫌いみんなに言いふらしてやるんだからぁーっ」
わぁっと泣き出した顔を両手で覆い、走り去っていく安田さん。安田さんの足は相変わらず速く、追いかけることはとても無理そうだ。
最悪に嫌われたいという願いは叶ったが、まずいことになってしまった。青ざめながら藍子を見遣る。
いまだブラウスのボタンは外され、チラチラ下着が見え隠れしている状態だ。その状態でクロが藍子の手首を掴んでいる様は、はたから見れば強引に迫っているように見えたかもしれない。むしろそうとしか見えなかっただろう。
元凶の緑池を恨みがましく、振り返った。緑池はもう完全に機会を逃したことを実感したのか、その場で打ちひしがれていた。
≪つづく≫
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僕と彼女と幽霊の秘密
著者:喜多 南
販売元:宝島社
(2012-01-13)
僕と姉妹と幽霊の約束
著者:喜多 南
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(2011-09-10)
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