ランジーン002

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 『ランジーン』のための簡易裁判が行われることとなった。傍聴はできない、裁判期間も短く、一週間以上はかからない。陪審員の三人、弁護士、検察官、裁判官共に『ランジーン』だ。『ランジーン』のための簡易裁判は強姦殺害事件にしては異例の措置だった。それも全て『ランジーン・デッド・ラン』の花形、I・J・フィリオを守るための措置だった。
 弁護側には弁護士が三人、I・J・フィリオの姿はない。
 検察側には検察官、ファウストが座っていた。
 裁判官と裁判長が所定の位置に着席し、裁判が始まる。
「裁判長、検察側は、証言者を呼んでいます。証言の許可をいただきたい」
 ファウストは立ち上がり、証言者の入廷許可を裁判長に申し出る。裁判長は手の甲で顎髭を擦りながら答える。
「検察側の申し出を却下します」
「なぜですか裁判長?」
「検察側から提出された資料の中に、真実とは遠い記載があったからです。神聖な法廷で茶番を演じさせるわけにはいかないですからね」
「茶番? 何を言っているのですか? 裁判長もう一度言います。検察側証人、証言者の入廷と証言の許可をください」
「却下します。検察側の資料によると証言者はサイレント・タンだと記載されています。サイレント・タンはコミュニケーションが他のファミリーと取れません。つまり法廷の場で証言できません、なので却下します」
「裁判長! 我々はサイレント・タンと相互コミュニケーションが取れる方法を開発しています。サイレント・タンとコミュニケーションは正しく取れます。どうか許可してください」
「却下します。サイレント・タンの言語解明ができるようになった? 信用できませんし、そこで得られた証言は証言者の意図とは違う証言に湾曲されて陪審員に伝わるかもしれません。却下します」
「事前に資料でご説明したとおり、レディオ・エステルの開発したプログラムは完璧です。
 つまりは、
 『ラング』(言葉)
  と
 『ジーン』(遺伝子)
  なのです。

 サイレント・タンの言語は人差し指で三センチ角の正方形の中、特殊なサインを描くことで成り立っています。一秒間に二つ、一分間に百二十のサインです。
 サインには特徴があり、その特徴から三つのパターンに分けることができます。
 『簡易型』数字を表すことが分かっています。
 『ポイント型』指先で一ヶ所をポイントします。
 『複雑爪先型』爪の先で引っ掻くように複雑な動きをします。
 『簡易型』『ポイント型』『複雑爪先型』この三つで一つの文章ができあがっているのです。しかし一つ一つ分解しても言語にはなりません。組み合わせなのです。『ラング』と『ジーン』なのです。
 サイレント・タンはその言語を遺伝子によって伝えているのです」
「遺伝子? なにを言っているんですか? バカバカしい」
「バカバカしくはありません。
 サイレント・タンは遺伝子情報を言語として使っているのです。
 まず『簡易型』これにより使う遺伝子情報の場所を明確にします。染色体です、染色体の何番目か、どの足の何列目を使うかを提示します。
 次に『ポイント型』これにより使う遺伝子の強調を決めます。つまり二重螺旋に展開されたDNAのスタート地点を示すのです。 
 最後に『複雑爪先型』これにより言語化する範囲と順番を決めます。ミオシン、アクチン、バリン、シト、」
「それ以上の説明は必要ありません、お座りくださいファウスト捜査官」
「必要です、このサイレント・タンの言語解明によりサイレント・タンは外部とのコミュニケーションを得たのです。証人がいます、どうか証言させてください」
「却下します」
「なぜですか?」
「理由は先ほど話したとおりです、信用度が低すぎて採用できません」
「信用度は高いはずです! 母体数を二百としてABABテストで顕著な優位さを出し、」
「説明は必要ありません!」
「必要です!」
 ファウストは机を両手で叩き立ち上がる。
「なんですかこれは! なぜ被告人が裁判に出ていないのですか! 弁護士が三人もいて! 検事は資料の一つも持ってきていない! 陪審員は三人しかおらず! 裁判官は重要な証人の証言をさせない! 殺害事件なのですよ! 死んでるのですよ! I・J・フィリオは複数のサイレント・タンを殺害しているかもしれないのです! 
 裁判をおこなってください裁判長!
 正当な! 正しい裁判を!」
「座ってくださいファウスト捜査官」
「裁判長! 死んだ人間がいるんです! 遺族がいて! 悲しみにくれる今日があるんです! 裁くのが司法でしょう!? そのための司法でしょう!? 
 人間と獣は違います! 過ちを正すのが人間でしょう!?」
「我々、私も、I・J・フィリオも、ファウスト捜査官、あなたも『ランジーン』であり人間ではないでしょう?」
「人間です裁判長! 『ランジーン』は人間でしょう!?
 脳内のホムンクルスを『イゲンシ』により改変されたただの人間でしょう!?
 特別な存在ではなく、もともと人間で、改変され『ランジーン』になってもそれは変わらないでしょう!?」
 ファウストは両手を広げ翼をはばたかせるように、ゆっくりと、丁寧に、尊厳ある人間として、『ランジーン』として言葉を紡ぐ。
「私たちはケモノじゃないんだ。
 コトバに縛られたケモノじゃないんだ。 人間なんだ。
 人間であり、コミュニティーの一員であり、だからこその司法なんでしょう?
 人間の尊厳を守る倫理でしょう?
 法律とはそのようなものでしょう?
 コトバのケモノに成り下がらないでください裁判長。
 人間として、尊厳ある霊長類として決断してください裁判長。
 司法だけが人を守り、国を守り、尊厳を守ることができるんです。
 我々は証言者を用意しています。証言の許可をいただきたい」
 両手を開き、強い視線を裁判長に向けるファウスト。
「許可をいただきたい」
 睨みつける瞳の奥には決意と、決心と、司法に対する強い信頼がこもっている。
「裁判長」
「許可はできません、ファウスト捜査官。あなたは騒ぎ過ぎだ、退出を命じます」
 ファウストは両手を机に叩きつける。


 ヒトミ・チャンドラが姿を消したのは判決が出てI・J・フィリオの無罪が確定した翌日だった。レディオは失意の中にいた。姉を死に追いやった男が司法の追及から逃れ生きている。このN・Yの空の下生きている。それだけで吐きそうだった。
「力及ばず、すいませんでした」
 頭を下げるファウストにその通りだなと思った。
 力が及ばなかった、ファウストも、自分も、サイレント・タンも力が及ばなかった。I・J・フィリオまで刃を届かせる力が全く足りなかった。
 ファウストは笑顔を見せず、去って行った。
「こんな私でも仕事があり、救えるかもしれない命が、真実があるかもしれませんので」
 別れの言葉は謝罪のみで、自分から言葉は発しなかった。力及ばなかった。敗者に発する言葉なんて一つもない。

 テレビをつける。『ランジーン・デッド・ラン』LA大会が放送されている。画面には今から行われる第三レースの選手四人がクラウチングスタートの態勢に入っている。I・J・フィリオの漆黒のプロテクタが日の光を浴びてキラキラキラキラ玉虫色に光っている。
 怒りはない、もう怒りは湧き出てこない。
 悲しみはない、悲しみはありすぎて、麻痺して感じない。
 苦しみはない、苦しすぎて、麻痺して感じない。
 憤りも、焦りも、敵愾心も、何も感じない。ただテレビに姉のことを殺した男が映っているだけだ。
 レースがスタートする。走り出す四人の選手、スタートで体の大きな『ランジーン』が先行し、その陰の中に、真後ろに、I・J・フィリオがピタッとマークしている。
 風圧をキャンセルし先行逃げ切りの選手の蔭でペースとスペースを得てスタミナを温存している。第一障害が見える。高さ三メートルのハードル、その奥に長さ八メートルの池。少し前方の選手と距離を取り、跳躍に備える。三メートルほど間を開けた時、それは起こった。
 観客席最前列、姉と自分が『ランジーン・デッド・ラン』を見に行った時と同じスタートから第一障害までが見られる特等席、よく見渡せるよう、腰くらいまでの手すりと広告板でコースから仕切られた、高さ四メートルほどの観客席から緑色の何かがスルリと落下していていった。
「あ、」
 レディオは思わず声をあげた。落下していく何かの色に見覚えがあった。緑色のジャケットと黒いパンツ、黒いパンツの下の足は両足とも義足。落下するときサラサラ風になびく長い黒髪は彼女が日系二世であることを証明する漆黒の黒だった。
 ヒトミ・チャンドラ。彼女が目を閉じ、両掌を胸の前で合わせ観客席からコースに落下していっていた。先頭を走る体の大きな『ランジーン』と跳躍のため少し距離をとったI・J・フィリオとの間四メートルほどの空間に、彼女は落下し、地面と衝突した。
 レディオは見た。落下してきた障害物を避けようとジャンプするI・J・フィリオの足首をヒトミ・チャンドラが掴んだのだ。強い意志で、絶対に殺すという強い意志でヒトミ・チャンドラはI・J・フィリオの足首を掴んでジャンプの阻害をしたのだ。
 転倒するI・J・フィリオに後続の選手も巻き込まれ、多重クラッシュしたまま選手たちは第一障害のハードルに激突する。時が止まったように画面が止まり、叫び続ける実況の声と飛び出してくる救護スタッフの映像で画面が動き出す。運ばれてきた担架に乗せられる選手たち。I・J・フィリオが担架に乗せられる。右の下肢、つま先と踵が場所を交換し、膝から下が百八十度捻られている。膝関節の脱臼だろう、膝を両手で抱え小刻みに震えるI・J・フィリオは苦しんではいたが生きていた。
 復讐? 報復? 制裁? きっと全てなのだと思う。ヒトミ・チャンドラはその全ての感情をI・J・フィリオにぶつけたのだと思う。自分の体を障害物にしてレースに介入し、自分の体を弾丸にしてフィリオを穿とうとしたのだと思う。
 持って行けたのは右足一本だったが。
 タブレットを引き寄せ電源を入れる。ヒトミ・チャンドラが残してくれた姉の言葉を再生する。
「レディオ・レディオ・レディオ・愛してる・愛してる・愛してるの・私はあなたを愛してるの・狂おしいほど・千切れるほど・飛び散るほど・弾けるほど・落ちるほど・沈み込むほど・天駆けるほど・迸るほど…………」
 愛してるよ姉さん、僕も愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。涙しか出ない、敗者は泣くことしかできない。自分とファウストが突き出した司法の刃はI・J・フィリオまで届かなかった。ヒトミ・チャンドラが突き出した捨て身の暴力は右足一本までしか届かなかった。ではどうすればいいのか? どうすれば刃が届くのか? もう届かない、とどく術はない、浴びるほど与えてもらった愛情に答える術は一つも残されていない。だから泣くことしかできない、敗者には泣くことしか許されてはいないのだ。
 だからレディオは泣いた。枯れることのない涙は頬を伝い、着ているシャツをグシャグシャにするまでレディオは泣いた、姉の、ヒトミ・チャンドラの残してくれた言葉を見ながら、懺悔しながら、絶望しながら、後悔しながら、許しを請いながら泣いた。泣きつかれ体を丸めるように眠りに落ちていった。
 音が聞こえる。小さな音だが重複し、とても大きな音になってレディオの鼓膜を揺らし、目が覚めた。家全体が揺れている、音で、規則的な音で、小さな音だが重複することによって共鳴し、大きな音になって家を揺らしている。
 サインだ。トン、トトトトト、トントットトン。ヒトミ・チャンドラが教えてくれたサイレント・タンが情報交換をしたい、誰かに話を聞いて欲しいときに発するサインだ。トン、トトトトト、トントットトン。家中を叩かれてその音が共鳴して、家を揺らしているのだ。
 レディオは玄関を開け外に出るとそこには保護区の中にいる全てのサイレント・タンがレディオの家を囲み、壁を、窓を、右手の人差し指で叩いてサインを送っていた。
「どうしたのですか?」
 レディオの問いかけに、サイレント・タンたちはいっせいに動きを止め、集まってきた。
 一人の男が右手をレディオの前に出す、人差し指でレディオの胸を軽く叩く。トン、トトトトト、トントットトン。話を聞いて欲しいのサイン。レディオはその意思を汲み、家の中からラップトップと液晶タブレット、椅子を二脚持ってきて一人のサイレント・タンを座らせ、もう一つの椅子にラップトップを置き、電源を入れた。
「すいません・話をしたいです・聞いて欲しいです・今の心の中を・今私たちじゃできないことを・あなたに・あなたに頼みたいです・あなたの技術で・私たちの・この願いを叶えて欲しいのです…………」
「分かりました、私に何ができるのか分かりませんが、協力させてください」
「歌いたいのです・声を・声を出して・届かせたいのです…………」
「誰にですか? なぜですか?」
「ヒトミ・チャンドラ・彼女に・サイレント・タンである彼女に・もう人差し指が動かない彼女に・鎮魂を・讃美歌を・哀悼を・歌を歌って届かせたいのです…………」
「音にして?」
「そうです・音にして・音にして・歌にして・遠くに行った・会うことのできない・同胞に・サイレント・タンの弾丸となった・同胞に・歌を・鎮魂を・救済を…………」
「分かりました」
 レディオは家の中に入り作りかけていた圧力伝導フィルム十枚を持ってくる。
「これは開発中の物ですが使えます。声は日本のボーカロイドを使いましょう」
 レディオは話ながら圧力伝導フィルムを身近にいるサイレント・タンたちに貼っていく。
「枚数はこれしかないので順番に歌ってください」
 レディオはラップトップのキーボードを叩き、設定をしていく。
「いいですよ、歌ってください」
 夜の暗闇の中に響く歌声は讃美歌ではなく、『エーデルワイス』だった。

『エーデルワイス――――――――――
 ――――――――――――――――― 
 ―――――――――――――――――』
 
 何度も何度も歌い続けられる『エーデルワイス』。凛とした空気を震わせる歌声は伸びやかに、切り裂くのではなく、融合するのではなく、冷めて鋭敏化した大気の中でその存在感を主張するのではなく、でも取り込まれるのではなく、伸びやかに、ただ伸びやかに天に、天に向かい突き進んで拡散していった。鎮魂の歌声は空に響き、レディオは歌声を聴きながら思った。
 この声はヒトミ・チャンドラに届くだろう。歌声は天駆け、彼女の魂を癒すだろう。永久の眠りに誘うだろう。でもこの声はI・J・フィリオには届かない。この声は刃となってあの男の喉元に届くことはない。
 歌声はこんなに素晴らしいのに、届かなければ意味がない。
 あの男の喉元に、刃が届かなければ、ヒトミ・チャンドラの鎮魂は終わらない。
 鎮魂はない。魂の安らぎはない。あの男の喉元に刃が届くまで自分の魂は、姉の魂は、ヒトミ・チャンドラの魂は敗者として涙を流すことしかできない。
 空に漂う姉とヒトミ・チャンドラの魂。
 肉体の中にある自分の矮小な魂。
 肉体は悲鳴をあげ、この先朽ち果てるまで悲鳴をあげ、魂は涙の鎖から、敗者の鎖から解き放たれることはない。
 サイレント・タンたちは歌声を捧げ、ヒトミ・チャンドラは命を捧げて、自分にまだ捧げられる物があるかを考える。
 歌声、『エーデルワイス』、何百人ものサイレント・タン、肉体、圧力伝導フィルム、伝えられる情報、音に変わり、放たれる情報、放たれた情報。
 
 情報の拡散と収束。

 起こり、広がり、変化させ、集まり、答えが出る。

 情報の拡散と収束。

 外部環境が個体の意思決定を行う。

 情報の拡散と収束。

 レディオは今、再構築されていく思考の中で、刃を、喉元まで届く刃を見つけていた。


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