それは、入学直後のこと。
私、渡瀬葵は、友達になった理沙ちゃんに誘われて部活見学に足を運んだ。まだ部活見学期間ははじまっていなかったけれど、理沙ちゃんはどうやらもう入る部活を決めているようだったので、それの付き添いでついていったの。
その部活は、『調理部』。
私はどっちかというと運動が得意だったし、包丁なんて一度も握ったことがない。ぶっちゃけ料理に興味はなかった。けれど理沙ちゃんが一人で行くのが緊張するというので、仕方なく。友達付き合いって大切だよね。
私たちは二人で並んで教室を出て、校内をトコトコ歩いて調理部の前についた。
入学して間もないし、まだ授業でも調理室を使用したことがない。この閉じられたドアの向こうに、見知らぬ先輩たちがいるかもしれないことを思うと、緊張で体がピリピリして、身動きが取れなくなった。
理沙ちゃんも私同様に緊張しているのか、少しの間、二人してドアの前に立ち尽くしていたの。
「あ、開けるよ理沙ちゃん」
「う、うん」
私は意を決して、ごくりと喉を鳴らして一歩前へと踏み込んだ。
ドアは――私が手をかける寸前で、ガラリと開いた。驚いた。
自動ドアだったのか? と思うほど絶妙なタイミングで開いたドアの向こうには、一人の女生徒が立っていたの。
あまりの衝撃で、めまいがしたのをよく覚えている。
視界に飛び込んできたのは、高い位置で一本に縛った髪。
制服の上にエプロンを着用して腕を組んでいるその人は、スカートから伸びるきれいな両足で仁王立ちをしていた。
私が今まで見たことないくらいキレイに整った顔を険しく歪め、鋭い瞳が真っ直ぐ見つめてくる。
その眼差しに、突き刺された気分だった。
頭の中が真っ白になって、身動き一つできなくなってしまった。
「何? アンタたち部活見学?」
「あ、あ、は、はわ……緋色、先輩」
横で、理沙ちゃんが呟いた。理沙ちゃんはどうやらこの美しい御仁を知っているようだった。これだけの美貌だ、有名人なのかもしれない。後から知ったんだけど、理沙ちゃんが調理部に入りたかったのも、緋色先輩が目当てだったらしい。そうなると……理沙ちゃんも油断ならないかもしれないわね。
とにかく、その美しい、美しすぎる先輩を前にわたしは、息すら止まっていたかもしれない。瞬き一つできなかった。大きく開いた両目をひたすら、緋色先輩とやらに向け続けることしかできなかった。その姿を脳裏にしっかり焼き付けようと必死だった。
なんてキレイな人なの。
こんな素敵な人が現実に存在するなんて思わなかった。心が震えた。
今までこんなにも胸が高鳴ったことがなくて、ああ、私十五年間平凡で普通な人生を送ってきたけれど、人生の素晴らしさが一瞬で理解できた気がする生きててよかった――
「見学するのかしないのか、どっちなの? そこに突っ立ってられると、邪魔」
きつい口調で言われて、うっとりしていた私はハッと我に返った。
何か言わなければいけない。何か、何か――
「は、入ります!」
思わず宣言してしまった。
「入る? 調理部に? 部活見学じゃなくて?」
「はい! 入部します! 決めました!」
頬がありえないくらい熱くて、ガチガチに固まったままで声を張った。
「あ、葵ちゃん?」
隣の理沙ちゃんが不審げな声を漏らしているが、もう彼女に構っていられる心の余裕がなかった。
だってこれは、恋。
この目の前にいる、素敵でカッコよすぎる緋色先輩に、私は恋してしまったの。
人生って素晴らしいわ。ありがとう、ありがとう緋色先輩――
「入学して調理部に行ったら、ひいちゃんに会って一目惚れしちゃいました。ってその一文ですむじゃんか」
葵の長い話を聞き終えての、黄の感想だ。
いまだ二人は陽の差さない階段の踊り場にいる。黄は疲れ果てて、いい加減葵から解放されたくなってきた。
「まだまだあるの! 今のは出会い編! 今から話すのは、初めてのお料理編!」
「え、それどこまで続くの?」
「えーとぉ、緋色先輩に褒められちゃった編、緋色先輩に怒られちゃった編、お休みの日に妄想編、緋色先輩の身辺調査編……」
「も、もういいよ……今度またゆっくり聞くから。今は、そう、もかちゃんのことを考えなきゃ!」
指折りして言ってくる葵を、黄は慌てて止めた。もうこれ以上葵フィルターでのキラキラした緋色の話を聞くのは限界だ。
黄は立ち上がり、うっとり顔から険しい顔に戻った葵へと、手を指し伸ばす。
「うじうじしてないで、直接会って話せばいーんじゃん!」
「話すって、誰と?」
「もかちゃんと!」
「……でも……」
葵はまだ迷っている様子だ。黄はヤレヤレと息を吐き、面倒くさい先輩の手を強引に取って、引っ張った。
「あーもう、いいから行こ行こ! もかちゃんと話せば、誤解だって絶対分かるから! もかちゃんはすっごい面白くていい子なんだよー!」
黄は葵の手をぐいぐいと引っ張り、廊下を歩いていく。
特別教室の並ぶこの一角は、人気もなくひっそりとしている。その中でも一番隅、化学室の前に黄と葵は立った。
葵が迷う暇を与えずに閉じられたドアを開こうとしたが、その直前になって中から話し声が聞こえてきた。
「あれ、もかちゃん以外に誰かいるのかな」
思わず黄の手が止まる。
『本当にいいの? 桃果』
『は、はい、緋色せんぱい。わたし、緋色せんぱいにだったら……』
聞き覚えのある声が耳に届いた。それは黄の姉、緋色のものだとすぐに気付く。どうやら、葵や黄がこの場に来るより先に、化学室で桃果のことを待っていたようだ。
なんとなく気まずくなって、横に立つ葵をちらとのぞき見る。
「こ、こんなとこに二人きりで何を……まさか」
ぶるぶる震えている葵は蒼白になり、目の端には涙まで浮かんでしまっている。
その間にも、二人の会話は聞こえてくる。
『強引に言ってきたけど、私は桃果の意思を尊重したいの。本当に嫌じゃない?』
『大丈夫です。ずっと大切にしてきたけど、緋色せんぱいになら……』
「大切なものって……も、もかちゃん一体何をひいちゃんに」
黄が呟くと、葵がくわぁっと目を見開き。
「やめてええええぇっ!!」
絶叫して、ものすごい勢いでドアを開いた。ピシャーンとドアが大きな音を立てる。
中にいたのは――予想通り、桃果と緋色だ。
二人は驚いた顔で、開け放たれたドアの方、涙目の葵をぽかーんと見ていた。もちろん着衣が乱れているとかそんなことはない。
「許せない小谷桃果! 緋色先輩の貞操は渡さないんだからーっ!」
「て、ててて、貞操ってあおちゃんそこまで……?」
黄は隣に立つ葵を、顔をひきつらせながら見上げる。若干葵から距離を開けた。
葵はその場全員の眼差しを集めながら、ずかすかと化学室の中へと入っていく。
黄も慌ててその後に続いた。まさか本当に刺す気じゃないだろうか、とハラハラして葵の動向を見守る。
よくよく見ると、向き合って立っていた桃果の手には、本があった。その本を緋色へと差し出している状態で、動きを止めている。
どうやら、間違い情報だらけのオカルト本を緋色に処分してほしいと頼んでいたようだ。前々からそんな本は捨てなさい、と緋色が何度も桃果に言っている場面を見たので、黄には予測がついた。
しかし葵は完全に勘違いしきっているのか、ふーっふーっと獣のように息を荒くして桃果を睨みつけている。
「わた、わたわた私の緋色先輩には指一本触れさせない!」
「あおちゃん違うって、二人は変な関係じゃないから……」
肩を怒らせている葵の背中に声をかけても、もう彼女がこっちの世界に戻ってくる気配はなかった。
緋色は「私の緋色先輩?」と怪訝そうに眉をひそめているが、彼女が調理部員の後輩だとは知っているので、怒ってはいないようだ。
桃果はひたすら唖然としている。
「そんなに緋色先輩とラブラブしたいなら、まずは私の屍を超えていくことね! 勝負しなさい小谷桃果!」
「あ、は、はい……?」
よく分からないまま勝負を申し込まれた桃果は、素直にこくりとうなずく。
黄は嘆息し、とてとてと緋色に近付いていった。
緋色は黄の存在に気付き、険しい顔つきになった。この事態を招いたのが黄だと思っているのだろう。黄は叱られる前に首を振っておく。
「違う違う。今回は誤解させるようなことしたひいちゃんが悪いんだかんね?」
「私が一体何をしたっていうのよ。葵が一体何を怒ってんのか、全く分かんないんだけど」
「いいからいいから。責任持って、最後まで付き合うこと」
黄が偉そうに言うと、緋色は納得いかない様子でムッツリとした。しかし、怒り狂っているのは、自分の部活の可愛い後輩だ。責任を持たねばならないと感じたのか、うなずいた。
黄も満足してうんうん、とうなずく。
「うむ、よろしいよろしい。フヒヒ♪」
緋色を手玉に取れるなんて、そうそうない事態だ。一人いまだにポカーン状態の桃果を置いて、楽しくなってきた、と黄はにんまり笑うのだった。
黄が、葵、桃果、緋色を連れてやってきたのは調理室だった。
本日は調理部がお休みということで、中には誰もいない。
連れてきた三人を見ると、葵はいまだに鼻息荒く桃果を睨みつけ、その眼差しが怖いのか桃果はビクビクと怯え、緋色は肩をすくめている。
「なんで調理室に連れてきたの? まずは葵の怒りをせつめ――」
「まあまあそんな細かいことはいいから。あおちゃんがもかちゃんに勝負を挑みたいって言ってんだから、ひいちゃんはそれを見守ればいいの」
中心に立った黄は、人差し指をぴん、と立てる。
葵が、緋色と桃果との仲を誤解していると説明してしまうと、緋色は葵の怒りをくだらない、と一言でぴしゃりと説き伏せてしまうだろう。そんなことをしてしまうと、心から必死な葵が可哀相だ。黄は面白がっている部分もあるが、事態を丸く収めたいとも考えていた。
「女の子が殴りあいの喧嘩をするのはどうかなーって思うし。ひいちゃん調理部だし、料理勝負なんていいかなって。ひいちゃんを納得させる料理を作った方が勝ちーって」
「……料理を作るのは、桃果と葵ってこと?」
「そうそう。そんでそれを食べて判定するのが、ひいちゃん。どうかな、あおちゃん、もかちゃん」
黄は葵と桃果の二人を交互に見遣る。
「私は殴りあいたい気分だけど、調理部だし、料理で負けるなんてありえないから料理勝負で妥協するわ」
葵がふんぞり返って言い放つ。料理によっぽどの自信を持っているらしい。
「え、えっと……料理、ですか?」
桃果がオウム返しに聞き返す。まだ何一つ事態を把握していないらしい。
「ひいちゃんの為にお料理するの、もかちゃんは嫌かなぁ?」
黄がじっと見つめて言うと、途端に桃果はアワアワしだした。いまだに人に見つめられるのは苦手らしく、簡単に挙動不審になってしまう桃果はやはり面白い。
「わ、わかりました。緋色せんぱいのためにお料理、つくります」
桃果がおどおど遠慮がちに言うと、葵がふん、と鼻をならした。
「じゃーひいちゃん、調理室にある食材、使っちゃってもいいよね?」
緋色へと確認すると、緋色は渋々うなずく。
「冷蔵庫に余ってる食材、少しだけど入ってるから。使いたいなら使えば」
緋色の返答に黄は満足し、葵と桃果に向き直った。
「じゃ、あおちゃん、もかちゃん、ちゃっちゃと作っちゃってくださいな! ひいちゃんの為に愛情たっぷり込めてね!」
黄が笑顔で勝負のはじまりを宣言すると、葵が颯爽と駆け出した。
調理室に置いてあったらしい自分のエプロンと三角巾を素早く着用し、準備は万端、気力も十分といった風。調理室に置いてある冷蔵庫を開けて中身を確認している。
一方、桃果は立ち尽くしていた。
「もかちゃんどしたの? 作らないの? 早くしないと、あおちゃんにいい食材取られちゃうよー」
「あ、は、はい。問題ないです」
何が問題ないんだろうか。葵が冷蔵庫の中を物色し、色々取り出している中でもいまだ冷蔵庫の方へと行こうとしない桃果に黄はじりじりと焦る。
「桃果、はいこれ」
いつの間にやら自分のエプロンと三角巾を持ってきた緋色が、桃果にエプロンと三角巾を貸してやっていた。
「ありがとうございます、緋色せんぱい」
桃果は丁寧に頭を下げてそれを受け取り、もそもそと不慣れな手つきでエプロンをつけた。
「よし、がんばります」
むん、と気合を入れている桃果だが、すでに調理台で料理をはじめている葵に大きく遅れを取ってしまっている。
「もかちゃんがんばれ!」
黄がハラハラした心持で声をかけると、桃果はうなずいて唇を引き結び、歩みだす。どうやらやっとスイッチが入ってくれたらしい。
しかし、桃果は冷蔵庫へ歩いて行かずに何故かスタスタと真っ直ぐに、調理室の入り口へと向かっていく。
「あれっもかちゃんどこ行くの? まさか逃げちゃうんじゃないよね?」
「大丈夫です。ちょっと食材を調達してこようと」
「調達?」
「緋色せんぱいに、おいしいものを食べてもらいたいんです」
振り向いて、メガネを光らせて言ってきた桃果の声は、とても力強かった。
気合の入った桃果のすごさを黄はよく知っている。
葵も頑張っている桃果の姿を見れば、きっと桃果のことを認めてくれるだろう。その頼もしい背中を、黄は手を振って見送った。
≪つづく≫
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僕と彼女と幽霊の秘密
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僕と姉妹と幽霊の約束
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