ヘッダー

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「動くな」
 俺はこういったはずだ、俺は「動くな」と言って頭が狂っているとしか思えない真っ白な格好をした女の首にカッターナイフを押し当てたはずだ。でも今は空を見てる。あれ?なんで? なんでこうなったの? 視界に入るのは空だけ、青く、雲一つない空は高く高くどこまでも高く俺の視界の中は青しかなかった。
「目を覚まされましたか?」
 澄んだ声が左耳の鼓膜を揺らし俺は声のほうに視線を向ける。向けようとする、しかし体が動かない、視線一つ動かせない、体中の筋肉が硬直して全く身動きが取れない。
「毒ですよ」
 毒?
「体が動かないのは毒のせいです。申し訳ありませんがわたくしは空が見たいのです。澄んだ、何も邪魔するもののない視界全ての空が見たかったのです。そのためにはあなたが動いて私の視界に入ると邪魔ですので動きを止めさせていただきました。なに、意識を取り戻されたのならじき喋ることもできるようになるはずです」
 視界は動かない、瞼も閉じられない、舌も動かない、体中どこも動かない。女の声は左耳から聞こえるが目視することはできない、きっとさっきの真っ白な女の声だと思うが確認はできない。
 恐怖。

 体全体を襲う恐怖。動きが全く取れないことへの恐怖と、今の状況が時系列的に理解できないことへの恐怖と、女への恐怖。恐怖で体中から滝のように汗が噴き出す。涙が目から溢れ出し、鼻から鼻水が滴り落ち、口の中には唾液が溢れ出す。
 死にたくない、死にたくない、まだ生きていることを実感したいと体中の分泌液が溢れ出す。それが俺に死を運んできた。
 鼻水で鼻が塞がれ口から溢れ出す唾液が喉に溜まり呼吸が苦しくなってきた、ゴボゴボと喉に溜まった唾液が音を立てるが咳込むことも、唾を吐き出すこともできない、窒息、死を予感させる苦痛に恐怖のボルテージは最高潮に達していた。体は動かない、息ができない、自由は何もなく死が間近にある。ゴボゴボ、喉が鳴る。唾液が食道ではなく気管に落ちていくのが分かる。苦痛、しかし咳込むことすらできない。ただ胸が焼けるような苦痛と窒息の苦痛があり、死を予感させる。
 時間が過ぎていく。視界は横から狭まっていくのが分かる。青い空の映像は横から死のカーテンによって閉じられていく。
 死は、死は黒なんだなと思った。視界を狭めていく黒は死の色なんだなと思った。だから生の色は青だ、どこまでも青い空、青い空は生なんだなと思った。感覚は消失していき残っているのは霞んだ視界だけ、見える空だけ。その空も徐々に左右から死の黒によって浸食されていっている。死への覚悟はない。死は受け入れるものではなくいきなり襲ってくるものだと思っていた。
 死への覚悟はない。しかし死はそこにあるものだと、死が今俺の頭の上に立ち俺を覗き込んでいると、素直に感じられた。
 覚悟はないが、なんと言うか、納得はできた。
 視界が狭まりもう空は映像として感知できなくなり光、光として俺の視界の中央部に針のような細さで存在しているのみになっていた。そしてその光も徐々に暗くなっていき、俺は死について納得していた時、左側から声が聞こえた。
「あれ、死なれるのですか?」
 はい死にます。
「なんで死なれるのですか?」
 よくは分からないのですが、きっと唾と鼻水によって窒息死します。
「あれあれ? ああなるほど、息が詰まって死なれるのですか」
 はいそうだと思います。
「それはすいませんでした」
 と声が聞こえていきなり俺の鼻がいきなり何かに包まれた、湿り気のある何か、そして一気に吸い上げられた。じゅるじゅるじゅるじゅる、俺の鼻からどろどろの鼻水が吸い上げられていく、じゅるじゅるじゅるじゅる、全ての鼻水を吸い上げられ鼻は湿った何かから解放される。次に口の中に何かがにゅるりと入ってきた。にゅるりと入ってきた何かは筋緊張でガチガチになった俺の口を大きく押し広げてズズズズズと俺の喉に溜まっていた唾を吸い上げていった。そして俺の鼻をつまみ、口から空気を送り込んでくる。俺の喉が送り込まれてくる空気でビロビロビロと音を立てる。吹き込まれる空気、吹き込まれる命、俺の視界は黒のカーテンが横にスライドしていき、光が溢れ、徐々に光は形を作り、目の前にあるものを知らせてくれる。そこにあったのはかんばせで、美しく整った真っ白な肌で、高い鼻で、アーモンドアイで、ぼってりと厚い真っ赤の唇で、その赤より赤い真っ赤な瞳だった。
 瞳の赤は燃えていた、ユラユラと陽炎のように赤は燃えていて気高く美しくもあり気持ち悪く滑稽でもあった。
「生きましたか?」
 おかしな言葉だ、でも今を的確に言い表した言葉だ。生きました。死にませんでした。生きることができました。俺は生きましたよ。
「生きましたか? それは結構なことです」
 赤い瞳のかんばせは俺の視界から消え、俺の視界にはまた高く突き抜ける空が見えた。
 うんうん、うー。声が少し出始める。まだかすれてはいるが声が出る。
 俺には聞きたいことがある。二つ。
 俺はなぜここにいるのか?
 お前は誰なのか?
「俺はなぜここにいる?」
 クスッ、少し吹き出すような、笑いが零れるような音がして赤い瞳を持った女は喋り出す。
「おかしな話です。わたくしにコンタクトを取ってきたのはあなたからでしょう? あなたがなぜここにいるのか聞きたいのはわたくしのほうですよ」
 クスッ、女はもう一度笑いを零す。
「質問を変えようか、俺はお前の鼻先にナイフを突きつけた、俺はお前を脅して自由を奪おうとしていた、なのになぜ俺は自由を奪われ空なんか見ている? 途中の記憶がない、ここはどこだ? なぜ俺は動けないんだ?」
「ああなるほど、そっちですか」
 女は得心したようで体を起こし(実際は体を起こした気配がしただけだが)喋り出す。
「わたくしはあなたにナイフを突きつけられました、突きつけられた瞬間まず、あなたの口と鼻を右手で押さえます。密着させ呼吸の一切を奪います。人間は面白いものです、空気の中の酸素量が一定値以下になると一瞬で失神してしまうのです。わたくしがさっき申し上げた毒とは窒素のことですよ。窒素、空気の中で一番多く含まれている成分、あなたは自分自身が排出する窒素に酔い失神してしまったのです。
 失神したあなたを担ぎ私は目的地であるこの草原に来ました。
 仰向けにして放置しました。あなたが目を覚まし視界に空が入ります。
 つまりはそのようなことなのです」
 今度は俺が得心する。なるほどと思う。口と鼻を押さえ一瞬で人間を失神させるなんてこと無理だなんて思わない。かんばせと赤い瞳を見たから。この女は『ランジーン』だ、『ランジーン』ならできないことではないだろう。
 得心した。次に質問をぶつける。
「お前は誰だ?」
「わたくしを誰だか知らないまま、わたくしを襲ったのですか?」
「お前なんか知らない、俺はあそこを通る人間だったら誰でもよかったんだ。たまたまお前が通っただけだ」
「なるほど、本当にわたくしを知らないと?」
「知るか、お前みたいな○○○○知るはずないだろう」
「本当に? テレビなどにも結構出ていたのですよ?」
「知るか、」
「この耳を見てください、これは私のトレードマークとしてロゴ化され、シンボルマークにもなっているのですよ」
 視界に女の頭から垂れ下がった二本の耳がビロンビロン行ったり来たりしているがウザったいだけで記憶を刺激しない。
「知らない、俺はテレビが身近にある環境で育ってこなかったし、刑務所の中じゃニュース以外見ることはなかった。お前のことなんか知らねーよ」
「そうですか……」
 女は少し寂しそうに語尾を濁し、耳を引っ込めた。
「わたくしを知らない人間、これはレアケースですね……」
 呟く女の声が聞こえてまた視界が女のかんばせでいっぱいになる。
「わたくしのこと、本当に知らないのですね?」
「知らねーよ」
「ホントにホントですね?」
「知らねーよ」
「…………あなたは何を望んでわたくしにナイフを向けたのですか?」
「ああ? ああ、金だよ。ここは金持ちのゾーンだ。だから忍びこんで金持ちを襲った。それだけだ」
「つまりはお金が目的だと?」
「それ以外なんかあるか? 金だろ普通?」
「つまりわたくしのことが目的ではなく、お金が目的だと?」
「そうだろ、金以外の目的なんてそうそうないだろ?」
「…………分かりました。あなたの目的がお金なのはよく分かりました。
 お金差し上げましょう、しかしお金を差し上げるのには一つ条件があります。
 わたくしの質問にお答えください。その答えにわたくしが納得する、納得しないは関係なくわたくしの質問にお答えいただければお金は差し上げましょう」
「質問? 納得? つまりお前が出した質問に俺が答えるだけで金をくれるってことか? その答えが間違っていても」
「質問の答えは合っている間違っていると判断できるものではないのです。わたくしが得心できる、得心できない、これが判断基準なので。しかし納得のいくお答えではなくともお金は差し上げますよ。それはお約束いたします」
 女のかんばせが近い、鼻先が触れ合いそうなほど顔を近づけてくる女の質問に答えることにした。間違っていてもいい、納得のいく答えでなくてもいい、ならば簡単な話ではないか、いい加減に答えて、こいつが納得しなくても金は入る。こんなラッキー問題はない。
 俺は質問に答えることにした。
「言ってみろよ。でも俺はスゲー無学だからな? お前失望しても金は払えよ」
 確認する。
「いいですよ、わたくしが今持っている現金を全て、それで足りないようなら自宅からもっとお金を持ってきましょう。
 契約成立ですか? 質問してよろしいですか?」
「ああいいぜ」
 俺は心の底から優雅に、答えてやる。
「それではお聞きしたいと思います」
「ああなんでも聞いてくれ」


「あなたはわたくしの生きる指針を知っていますか?」
「は? 知るわけねーだろボケ」

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