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「――神さまって、朝焼けみたい」
カーテンのすき間からこぼれる光に気づいて、少年はつぶやいた。
話しているうちに、いつの間にか夜が明けたらしい。
ベッドを出る。足の裏が、ぺたりと床につく。ぬるい。
カーテンを開けて、少年はぼんやりとした視線を外に向けた。
『神が朝焼け? お前はおかしな考え方をする』
くくくっ、としわがれた低い声が少年を笑った。
「ぼくじゃないよ。お母さんがそう言ったんだ。ずっと前……」
『死ぬ前だな』
「……そうだよ」
少年は頷く。それは、そうだ。しゃべったんだから、生きていたときにちがいない。
少しだけ悲しくなるが、涙は出ない。
朝の空は、くらげに似ている、と思う。
ふわふわと、届かないかんじ。
少年は、窓に寄りかかるようにその場に座った。
『天照大御神(あまてらすおおみかみ)は太陽神だな』
「うん」
『天の岩戸にこもった話を?』
「あまのいわと? 洞くつにかくれた話なら知ってるよ。お父さんが話してくれた」
『死ぬ前に?』
意地悪く蒸し返されて苦笑する。
痛くはない。涙も出ない。
少し前まで、そのことを考えただけで泣いていたのに。
痛みにも、悲しみにも、喪失にも、人はわりとかんたんに慣れてしまう。
「あまてらすさまは、昔いやなことがあって、洞くつにかくれたんだって」
『大雑把だな。それで?』
「世界がまっ暗になって、みんな困った。だからまた、あまてらすさまに出てきてもらった。太陽がもとにもどって、めでたし」
くくくっ、と、少年の傍でまた笑い声があがる。
『世界がまっ暗になると、なんで困るか知ってるか、小僧』
「暗いと困るよ。そんなの、あたり前でしょう」
『なんで困る?』
「……なんにも見えないから」
『もっとひどい理由がある』
「なに?」
しわがれた声が、ひときわ声を低くして答える。
『常夜(とこよ)は妖(あやかし)を惹きつける。妖が溢れると世界は混乱する』
「とこよ?」
『知らないのか? 常夜だよ。暗闇だけの世界。天照大御神が天の岩戸に隠れたせいで、俺たちみたいなのが出てきて暴れたんだ……』
不気味な口調で言って、くくくっ、と笑う相手を、少年は不思議そうに見下ろした。
「君みたいなのがいても、ぼくはべつに困らないよ」
笑い声は一瞬止んで、さらに大きな笑い声になって戻ってきた。
『愚かだな、お前は』
笑いながらそう言われて、なにがそんなに可笑しいの、と少年は肩をすくめる。
「――冬基(とうき)。なにやってるんだ」
笑い声のせいで、部屋に人が入ってきたことに気づくのが遅れた。
はっとして振り返ると、入り口に祖父が立っていた。少年は慌てて立ちあがる。
「一晩中起きてたのか?」
「そう……」
おしゃべりしてたの。とは言えず、少年はちいさい声で答えた。祖父は難しい顔で黙る。
「でもだいじょうぶ、いまからねる……」
心配をかけまいとそう言った。なにか眩しいものでも見るように目を細めて少年を見下ろした祖父の視線が、ふと床に向く。「あっ」少年は思わず声をあげた。
「なんだ? それは」
「石……。きれいだから、拾ったの。いっしょにねてもいい?」
「ああ……」
祖父は困惑した顔で頷いた。すべすべとした、青みがかった灰色の、なんの変哲もないまるっこい石だった。少年が拾いあげて握り締めると、くくくっ、と笑い声があがる。
祖父に軽く背を押されて、ベッドに戻った。
祖父がそっと布団をかけてくれる。不器用に優しい手つきで。
「ねえ、おじいちゃん」
「なんだ」
「おじいちゃんも、神さまは朝焼けみたいって、おもう?」
祖父は驚いたように目を開いて、窓のほうを振り返った。さっきよりも明るい空。
「ああ……。そうだな」
祖父の声が震えたような気がした。気のせいだろうと思った。目元が光ったように見えた。きっと太陽の光のせいだと思った。
祖父がカーテンを閉め、ベッドサイドの明かりも消した。少年は唐突に眠気を覚える。
「眠りなさい」
祖父が囁いて、少年の頭に一瞬だけ触れた。
笑い声は、もうどこにも聞こえない。
祖父は、ほとんど足音を立てずに歩いて、部屋を出ていった。ドアが閉まる。海の底に閉じこめられたみたいな静寂が訪れる。
少年は目を閉じる。世界がまっ暗になる。
なにも見えなくても、なにも困らなかった。
【一. 鼬の降りる夜、猫の眠る朝】
――もっと笑って。怒って。泣いて。驚いて。楽しそうな顔してよ、冬基。
というのが、冬基の幼なじみ、南綾乃(みなみ・あやの)の口癖だった。
最近ようやく言われなくなったが、小学生の頃はよく言われた。半ば叱るような、半ば懇願するような口調で。
言われるたびに困った。むりをして感情を抑えたことなんてない。綾乃ほど感情表現が豊かじゃないのは、たんに性格のちがいだろうと思った。
あるいは環境。
冬基の家は神社で、神主である祖父とふたり暮らしをしている。
ふたりとも静かな生活を好み、毎日おなじことを、おなじようにするのを苦としない。
決まっていることを、決まったとおりにこなす日々を送っていれば、怒ることも、驚くことも、泣くことも、感情を大きく揺さぶられるようなことは起こらない。
たとえば朝起きて、ベッドに見知らぬ少女が眠っているなんてことは――。
起こらない、はずだ。
「――っ」
目を開けて、冬基は息を止めた。
ベッドの上に、自分のものではない温度を感じる。生き物の体温を。
三秒くらい天井を眺めて、一度目をつぶった。そして開ける。おなじ天井が見える。
体温は、まだそこにある。たしかに呼吸をしている。
夢じゃない、らしい。
「……」
ゆっくりと上半身を起こすと、そこにはひとりの少女が眠っていた。
布団ごしに、冬基の右足全体を枕のようにしている。
ちいさい。サイズは幼稚園児くらいだ。色鮮やかな着物を着ている。肩くらいまでの、透きとおるようにまっ白な髪が、顔にかかっている。肌も白い。唇は紅をひいたような赤。日本人形が、間違って生を受けてしまったような美しさだった。
す、すう、と寝息をたてて眠る彼女を、冬基は眺める。
ここ数年で一番驚いた。綾乃に報告すれば喜ぶかもしれない。
――そんなことを考えている場合じゃないか……。
時計を見る。朝の五時を、十五分ほど過ぎている。
「――だれ?」
囁くようにそう言って、少女の頭に触れた。白い髪は驚くほどなめらかで、どうやら地毛だ。相手は起きない。よくこんなところで熟睡できるな、と思う。気づかずに眠っていた自分もすごいけど。
昨夜はもちろん、部屋には冬基しかいなかった。いつからここで眠っていたのだろう。
ずっと前、境内に犬が捨てられていたことがある。
柴犬に似た雑種犬だった。神社ならば命を祖末にせず、捨て犬を助けてくれると思われたのかもしれない。
――でもまさか、おなじように子どもを捨てていく人はいないだろうし。
いるとしても、まさか家の中まで入ってきて、住人のベッドの上に捨てる人はいないだろう。たぶん。おそらく。――わからない。世の中、いろんな人がいるから。
少女が「ふぃ……」と寝ぼけた声を漏らした。冬基は微笑する。
起こさずに祖父を呼んでこようかと思ったとき、視界の端になにかが映った。
布団の陰で、ぱた、と揺れたのは、見間違いでなければ、尻尾だ。白い尻尾。
尻尾? だれの?
見間違いでなければ、少女の。
そして、さらに見間違いでなければ、二本ある。
「………………」
冬基の「ここ数年で一番の驚き」は、数分で更新された。
さすがに数秒、思考回路がストップした。
硬直していると、ぱた、ぱた、と尻尾がさらに揺れて、少女が動いた。
「だめだ!」
高い声でそう叫んだかと思うと、少女はぱちりと目を開けた。
「…………」
「…………わあっ」
冬基と目が合った瞬間、少女は叫び声をあげてベッドを飛び降りた。だだだだっ、と壁際に駆け、背中をびたんと壁につける。
警戒した目つきをされて、冬基は複雑な気持ちになる。どちらかといえば、警戒するべきは自分のほうじゃないのか。
少女の瞳は、左右で色がちがった。
左目が赤く、右目は黒にちかい濃紺だ。
尻尾を確認する。緊張していることを示すように、ぴんと天井を向いている二本の尻尾。さっきとは形がちがう。ハリボテをつけているわけではないらしい。
「もしかして、きのうの……?」
冬基がつぶやくと、少女はちいさく頷いた。
「あ、そう……」
なにも納得していなかったが、冬基はとりあえず頷く。
たしかにきのう、自分は尻尾が二本ある生物を拾った。
だけど、拾ったのはイタチだったはずだ。人間の少女を拾った覚えはない。
「ここで眠るつもりはなかった。お前のせいだ。お前のせいで眠くなった」
どこか偉そうな口調で少女が言う。やや舌足らずな、子どもの声。
「それは、ごめんね」
冬基は謝ってみる。なんにも悪いと思ってないでしょ、と綾乃なら指摘しただろう。少女もあまり気に入らなかったようで、眉を寄せて不機嫌そうな顔になった。
冬基は頭をかいて、とりあえず布団から出た。床に足をつける。やっぱり夢じゃない。
「それで――、君は、だれ?」
「先に名乗れ」
ここはだれの部屋だっけ、と思った。
「僕は、睦川冬基。君は?」
「ライだ。そう呼ぶことを許す」
「ライ。……とりあえず、この部屋を出て、一階に行こう」
「宮司(ぐうじ)と話せと?」
冬基はまばたきをした。宮司とは神職の階級のことで、この神社の宮司は、すなわち冬基の祖父である。
「宮司のことを知ってるの?」
「昨夜話した。あの男は最初から、我がただの獣ではないと見抜いておったぞ」
「そうだったんだ。知らなかった」
ライが冬基を見て、首をかしげる。
「お前には気づかれてないと思っておった」
「気づいてなかったよ。いまも、なんだかよくわかってない」
「ならば、なぜもっと驚かん。朝起きて、人型の我が眠っていて、動揺せんのか」
「驚いてるし、動揺してる」
「嘘をつけ。そんなふうには見えん」
ライが顔をしかめて言う。
どうしてみんな、そんなに僕に驚いてほしいんだ、と冬基は思う。
「それは、ごめんね」
冬基が再びあまり心のこもっていない謝罪を口にしたとき、廊下から人の気配がした。ノックのあとにドアが開く。立っているのは祖父だった。寝間着のままだ。
祖父は壁際に立っているライに視線を向け、目を細めた。
「私の部屋からは出るなと言ったはずだ」祖父が静かに言う。
「少し様子を見たら戻るつもりだった。こいつが悪い。こいつのせいで眠くなった」
ライが反論する。さっきから、わけのわからない言い訳だ、と冬基は思う。人が催眠術でも使ったみたいな言い方はやめてほしい。
「部屋から出るな、と言った。様子を見にいくこと自体が間違っている」
祖父がそう返すと、ライは黙った。
冬基は床に垂れたライの尻尾の先を眺める。
「あの、宮司」
「なんだ」
「僕がきのうの夜拾ったのは、なんだったんでしょう?」
「……妖怪だ」
祖父が難しい顔でそう答え、「妖怪という言い方は好かん」ライが付け加えた。
「我のことは、天(そら)と混沌(こんとん)の者、あるいは妖(あやかし)と呼べ」
「……そうですか。わかりました」
冬基は頷いてみる。なにもわかっていなかったが、それ以外に言葉が浮かばない。
祖父がため息をついた。
「冬基。説明はあとだ。やるべきことをやりなさい。お前は私の部屋に帰ること」
ライは不満そうに眉を寄せたが、渋々祖父について出ていった。
ひとり残された冬基は、しばらくぼんやりとしてから、時計を見る。
五時二十五分。
とりあえず、いつもどおりにシャワーを浴びよう、と思った。
決まっていることを、決まったとおりにこなすのが、冬基の日々だ。
たとえある日突然、ベッドの上に見知らぬ妖怪が眠っていたとしても――。
できるかぎり、いつもどおりに過ごすのだ。
*
睦笠(むつかさ)神社の朝は早い。
平日も休日も関係なく、冬基は毎朝五時半に起きる。まずシャワーを浴びるのは目を覚ますためと、身体を清めるためだ。白衣白袴に着替え、一階におりる。
二階建てのこの家には、一階にも二階にも居間・ダイニング・台所・風呂・トイレがあるが、冬基の居住空間はおもに二階だ。階段をおりてすぐ左手に、祖父の部屋がある。
祖父の部屋の襖は閉まっていた。冬基はちらりとそれを見る。この中に、さっきの妖怪がいるのだろうか、と思いつつ。
一階の廊下は、突き当たりのドアを隔てて社殿と直接繋がっている。この神社の社殿は赤い。本殿、幣殿、拝殿と分かれているが、祭神が祀ってある本殿には、通常、人は立ち入らない。参拝者が入るのは基本的に拝殿だ。拝殿には、賽銭箱に鈴、おみくじなどが置いてある。幣殿は、本殿と拝殿の間の空間を指し、神様の食事である神撰が供えられている。
社殿は、不思議といつも、廊下よりひんやりとした空気が流れている。
冬基は草履をはいて、まず夜間は閉じてある拝殿の門を開けた。
睦笠神社の拝殿は、基本的に朝六時までに開門することになっている。
だから、祖父も冬基も、三百六十五日、六時までには起床していることになる。
開門のあとは、境内をそうじする。睦笠神社はけっして広い神社ではないが、それでも冬基ひとりでそうじをするには、一時間弱かかる。
「妖怪か……」
竹箒で参道を掃く手を休めて、空を見る。
春の空は、綺麗に晴れている。昨夜はひどい雨が降っていたのに。
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著者:深沢 仁
出版:宝島社
(2013-08-10)
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