第六話 弟子
その日の目覚めは驚くほどに爽快で、意識を浮上させてから、すぐに頭の中が冴え渡っていった。
いつもの鈍い頭痛や、こみ上げてくる吐き気や、寝床に縫いつけられたのかと錯覚するほどの気怠さもない。
久しく忘れていた疲労のない朝に、戸惑ってしまうほどだ。
カリーナは、そんな心地よい目覚めの余韻にひたり、幸せな気分になる。
だが次の瞬間には、昨日のことを思い出して、どん底まで気を沈ませた。
──お父様に捨てられた、人生最悪の日。
昨日は、カリーナにとってそういう日だった。
いっそ、もう目覚めなくてもよかったとさえ思ってしまう。
なりふり構わず泣いてしまいたくなるものの、ここは恩人の家であったことを思い出して、なんとか堪えた。
これからどうしようかと、頭を悩ませながら起き上がり……ふと寝かされていたベッドの手触りが、やけにいいことに気が付く。
(……これ、何で出来ていますの?)
体が沈み込みそうな、それでいて適度な弾力のあるマットレスに、素材はよく分からないが高品質であることが分かるシーツ。
昨晩は色々ありすぎて意識していなかったが、これは元実家である侯爵家にあったベッドよりも質が高いように思えた。
ふと気になって、カリーナは自分がいる部屋の内装を見回し……驚愕に、目を見開く。
その部屋の中にあった、調度品の数々。
それらのほとんどが、何かしらの魔道具だったのだ。
火を使わないランプや、傾けると中から水が湧く水瓶といった定番のものから、用途のよく分からない珍しいものまで、様々な魔道具が備え付けられてある。
価値は質によって大きく左右されるものの、大抵の魔道具は庶民の手には届きにくい高級品だ。
それが、この客室には数え切れないほど置かれてある。
侯爵家の屋敷並みの……いや、それ以上の財力を窺わせる部屋だった。
(たしか、アキラ様と名乗っておられましたけど……)
一体、何者なのだろうか?
明らかに只者ではないのだが、少なくともカリーナの記憶の中に、アキラという名の大貴族や富豪はいない。
それに、これだけの調度品を揃えられる財力があるのに、どうしてあんなに見窄らしい格好をしているのかも分からなかった。
普通の魔法使いならば平民出身でもそこそこ裕福であるし、よほど能力が低くなければ、もうちょっと良い装備品を揃えられる。
特に戦いを専門とする四級以上の魔法使いともなれば、装備品の質が生死に直結する場合もあるので、できるだけ良い装備品で身を包むのが普通だ。
だがアキラの身につけていた装備品は、五級以下の魔法使いよりも酷いものだった。
流派の師範になることを認められるほど優秀な魔法使いであるはずなのに、どうしてあんな格好をしているのだろうか?
次々と浮かび上がってくる不可解な点に、カリーナが考え込んでいると、部屋の扉をノックする音が響いた。
「起きてるか?」
その問い掛けにカリーナが返事をすると、楕円形のトレイを片手に持ったアキラが、扉を開けて中に入ってくる。
トレイの上には皿が乗っており、白い湯気を立てていた。
ベッドの上にいるカリーナからは、その中身までは見えない。
「体の調子はどうだ?」
「おかげさまで、調子が良いですわ」
「そうか」
ぶっきらぼうな口調で喋るアキラが、ベッドの傍にまで来ると、カリーナは深々と頭を下げた。
「昨晩は助けてもらった上に泊めて頂き、感謝いたしますわ」
「別にいいさ」
「それで……その……」
思わずカリーナは、続く言葉を言い淀んでしまう。
アキラから恩を受けたものの、家から捨てられたばかりの彼女には、返せるものが何もないのだ。
カリーナがどうやってお礼をすればいいのか悩んでいると、アキラが手に持っていたトレイを彼女に差し出した。
皿の中にある米料理らしきものから良い匂いが漂い、カリーナの鼻腔をくすぐる。
「あの、これは?」
「朝食だ。お粥はスキルメニューにな……作れないから、リゾットにしてみた」
カリーナがトレイを受け取った状態で呆けていると、アキラが首を傾げた。
「食欲がないのか?」
「いえ、そうではなく──」
ただでさえ何もお礼ができないのに、朝食まで頂いてしまって良いのだろうか?
と思ったところで、カリーナのお腹からキュルキュルと可愛らしい音が鳴った。
昨晩は夕食前に家を飛び出したので、お腹が減っていたのだ。
「……頂きますわ」
恥ずかしさから顔を赤くして、カリーナはトレイの上にあった匙を手に取る。
そうして、ランドリア王国では珍しい米の料理を掬い、ゆっくりと口の中に運んだ。
咀嚼した途端に、鬱屈としていた気分を忘れてしまうほどの衝撃を受けて、目を大きく見開く。
(──美味しいっ!)
海鮮類とチーズが絶妙に絡み合った味が舌の上に広がる。
今まで食べたことのないような美味に、カリーナは頬に手を当てて、うっとりと目尻を弛ませた。
この近辺では高級食材である海の幸に、様々な調味料を惜しげもなく使った料理。
かなりの贅を凝らした一品だが、カリーナはそんなことを考える余裕もないほどに、料理の虜にされてしまった。
夢中になってリゾットを掬い、一口ごとにじっくりと味わう。
カリーナが実に幸せそうな表情で料理を食べていると、途中でアキラが彼女に声を掛けた。
「そういえばさ」
「……はい」
我に返ったカリーナは、自分がアキラの視線を忘れるほど一心不乱に食事をしていたことに気が付き、ますます顔を赤くする。
「お前、通ってた学院はどうなるんだ?」
「えっと……? 失礼、仰っている意味がよく分かりませんわ」
カリーナがそう言うと、アキラはどこか話しづらそうに頬を掻いた。
「実家から勘当されたんだろう? 学費とかどうなるのかなって……」
アキラの質問に、カリーナは内心で疑問符を浮かべつつ、素直に答える。
「いえ、魔法学院に学費はありませんわ。ギルド長と学院長を兼任なされているウリエル様が資金を提供しておりまして、魔法の才能がある者ならば誰でも入れるようになっていますの」
「そうか」
頷くアキラを、カリーナは不思議そうに見つめた。
今話したことは、ランドリア王国の魔法使いならば誰でも知っていることだ。
仮にも流派の師範を引き受けた者が、どうしてそんなことを知らないのだろうか?
カリーナがそう疑問に思っていると、アキラが懐から何かを取り出した。
「じゃあ、学院には通えるんだな」
そう言って、彼は見たことのない紋様が刻まれた記章をカリーナに手渡す。
アキラの流派に弟子入りをしたことを示すそれに、彼女は声を震わせた。
「こ、これは! どうして……」
「昨日、弟子にするって言っただろう?」
「でも、わたくしは七級で──」
カリーナが言おうとした言葉を遮るようにして、アキラがさらに驚くべきことを言い出した。
「そうそう、家に帰れるようになるまでは、ここで寝泊まりするといい」
「えっ」
「どうせ部屋は余ってるからな」
「……」
あまりのことに、カリーナは絶句する。
アキラとカリーナは、昨日まで赤の他人だったはずだ。
今も、少し会話をしたことがある程度の知人でしかない。
とてもではないが、カリーナがそのような厚遇を受けていい関係ではないはずだ。
思わず下心を疑ってしまいそうになるが、カリーナはすぐにその考えを否定した。
彼女は自分の容姿にそこまで自惚れてはいないし、かといって他のことでも自分に価値があるとは思えない。
カリーナはラッセル家から追い出されてしまったし、彼ほどの財力を持つ者を満足させるような金銭も持ち合わせていないのだ。
強いて言うなら僅かなりとも魔法を扱える力があることだが、それも流派の師範をするほどの者にとったらゴミのようなものだろう。
彼女が反応を返せないでいると、アキラが不安そうに声を掛けてきた。
「嫌か?」
「いえ、そういうことではなく……どうして、そこまでして下さいますの?」
──彼は底抜けのお人好しで、自分の身の上に同情した。
カリーナが思いつく理由は、これぐらいだった。
もしそうなら、アキラの善意からくる厚意に感謝しなければならない。
そして、彼の提案を絶対に断ろうと思っていた。
アキラが優しいのをいいことに、ただ同情を引いて自分から甘い汁を
啜ろうとするなど、他人を騙して懐を潤す輩と何ら変わらないと思ったからだ。 彼の善意につけ込んで、依存するようなことはしたくなかった。
優しい人だからこそ、甘えてはいけないと思った。
そんな決意を胸に、アキラの返事を待つ。
だが彼が口にした理由は、カリーナが予想していたものとは違っていた。
「目の下に、クマがあったからだ」
「クマ……ですか?」
戸惑うカリーナに、アキラは何かを考えながら、ゆっくりと話を続ける。
「実は、俺が誰かを弟子に取るのは初めてだ。そして俺のやり方だと、弟子の成長に普通の才能は関係ない……と思う。俺にとって、弟子のランクが一級だろうが七級だろうが関係ないんだ。だから俺は、違う部分を評価した」
アキラはそこで一旦言葉を切ると、気恥ずかしそうに視線をカリーナから逸らした。
「俺はお前を、凄いと思った。見込みがあると思ったから、弟子にした。そして、俺の弟子だから面倒を見る。これじゃ駄目か?」
彼の話した内容に、カリーナは体を硬直させた。
半開きになった口から、消え入りそうな声を漏らす。
「……わたくしを、評価して下さったと?」
「そうだ。だってお前は、あんなになるまで努力を重ねてきたんだろう? よく頑張ったな」
「あ──」
心が、震えた。
何かを言おうとしても声が出ず、唇だけが動く。
堪える暇もなく、涙が溢れた。
結果の出ない努力に何の意味もないと、カリーナは重々承知している。
だから、誰からも……父からでさえも、労いや褒め言葉はもらったことがないし、それが当然だと思っていた。
鼻で笑われて馬鹿にされることはあっても、評価されるなんてことはなかった。
だからだろうか。
「よく頑張ったな」という軽い一言が、心の奥底まで深く響いたのだ。
初めての経験に、言葉では言い表せない感情が胸を熱くした。
ふとアキラの手が、カリーナの頭を撫でる。
その仕草は、まるで子供扱いだ。
でもそれがとても心地よく感じられ、彼女は自分が子供であったことを思い出した。
これまで、簡単には涙を見せたりしないと半ば意地になりながら生きてきたのだが、昨日からは泣いてばかりである。
情けないという思いはあるものの、今はもう無理に我慢しようとは思わなくなっていた。
「……ありがとうございます」
ようやく声が出せる程度に落ち着いたカリーナは、渡された記章を大切そうに胸に抱きながら、深く頭を下げたのだった。