burret


 第二部


君がどこにもいなくなって、私は毎日、君を探した
 お空にいるよと、ママが言う 私は毎日、お空を見上げた
 大地にいるぞと、パパが言う 私は毎日、地面を探した
 でもいない。どこにもいない ねえ、君はホントはどこにいるの?
                    (マーガティの詩集『Never』より)


1 リュミエイラの作戦記録② 降伏勧告


 私は呼吸に合わせてかすかに揺れる狙撃用スコープの十字線を見ていた。
 スコープの中には、風景と呼ぶにはあまりにも小さな円形の点に切り取られたヴァレオンの風景が見えている。
 私は特別に狙撃の腕前がいいというわけではない。
 ただ、分隊で狙撃銃を任せてもらえる程度には遠距離の目標に命中させる能力があったことと、じっと黙って動かずにいることを苦としない性格だったために狙撃手を任されているというだけだ。
 主任務は後方支援だが、もちろん気を抜くようなことは出来ない。敵狙撃手への逆狙撃(カウンタースナイプ)や支援火器の無力化、狙撃を警戒させることで敵の行動を制限するなど、味方の安全に貢献できる仕事は数多い。
 狙撃用に作られた徹甲弾(てっこうだん)は射程だけでなく弾速や貫通力に優れ、遠距離からの精密射撃は装甲目標に対する攻撃手段としても優秀だ。
 ――装甲目標。
 そう、今回の作戦は敵部隊のすべてがその装甲目標だった。
 通常弾では歯が立たないほどに分厚い全身装甲を身につけているというのに、まるで軽装の兵士のように俊敏に動く。単体でも十分な脅威であるその敵が、コンピューターによって情報管理され部隊単位で作戦行動を行うというのだからその部隊の戦闘力は計り知れない。
 その脅威から、聖帝閣下の都を、帝都を守らなければならない。
 ――いたっ!
 ビルの三階から索敵を行っていた私の視界に、防弾装甲を身につけた敵兵士の姿が映る。
「こちらリュミエイラ、敵兵発見」
 私は味方に通信を入れ、視界に収めた敵兵に照準を合わせる。スコープの十字線の中心にヘルメットに覆われた敵兵の頭部を捉え――そこで異変に気付く。
引き金を引こうとして、それができなかった。
 右手の人差し指がない。
「!?」
なぜ、と脳裏を駆ける疑問を切り捨て、即座に中指を引き金にかける。再度照準を合わせ、発砲。
 命中すればヘルメットごと敵兵の頭部を撃ち抜ける九・六ミリ狙撃用徹甲弾が、ヘルメットの側面をかすめて火花を散らせた。
 ――外したっ!
 撃てば居場所を知られ、居場所を知られた狙撃手は狩る側から狩られる側になる。
「すみません、仕留め損ねました。リュミエイラ移動します」
 私は味方に通信を入れると狙撃ポイント変更のために、片膝をついた狙撃体勢――ニーリングポジションから立ち上がろうとして、転んだ。
両足の膝から下もなくなっていた。
 今度はなぜと思う間もなかった。ビルの階段を駆け上がってくる敵の足音が聞こえた。
「だ、誰か……」
 支援を求めて通信を入れるが、応答がない。
どうして? お姉ちゃんは? 分隊のみんなは? まさか、全員やられてしまったというのか?
 私は最悪の想像にぞっと血の気の引いて行く感覚を覚えたが、状況を確かめる時間も、悩む時間もなかった。敵の足音がすぐそこに迫っている。
私は腕を使って身体を起こすと、腹筋で上体を安定させ、『SR43――アーバレスト』を構えた。ボルトハンドルを操作して弾丸を薬室に送り込むと、敵兵の足音が聞こえてくる方向に銃口を向ける。
 連射性は低く、長距離射撃の精度を高めるための長い銃身は接近戦ではかえって邪魔になる。と言って、護身用に携行している『МP四八――ケルベロス』では敵の装甲を抜けない。
 出会い頭の一発を外したら私の負けだ。
 通路の向こうから敵の足音が近づいてくる。あと一つ、敵が角を曲がったら遭遇する。
 さあ、来るなら来い。
 私は接近してくる敵の足音に銃口を向けて待ち構え、敵の重装兵が通路の角から姿を見せた瞬間に引き金を引いた。
 有効射程千メートル超の狙撃用徹甲弾が防弾装甲を容易く貫通し、敵兵の左胸を撃ち抜いた。心臓に命中したのだろう、敵兵がその場に倒れて動かなくなる。
 何とか当たってくれたが、すぐに他の敵が来る。速やかに移動しなければならない。
「誰か応えて、こちらリュミエイラ、応答を」
 私は再度、支援を求める通信を入れた。しかし、返ってくるものは、ただただ沈黙。
「どうして? どうして誰も応えてくれないの?」
 私は沈黙しか返さない通信機に苛立ちつつ呼びかけ続けた。
「誰か、お姉ちゃんっ! 応えてよ!」
 私、なにもできないのに、たった一人でこれから――


「――私はっ!」
 自分の叫び声で目を覚まし、狭い樹洞の天井に頭を打った。
 一体なにが、と周囲に広がる森林の風景を見回し、狭い樹洞に身を収めている自分に気がついて、私は自分の状況を思い出した。
「……はあ」
 私はため息をついて爪を噛んだ。
帝都の戦闘はもう二カ月以上前のことなのに、あんな夢を見るなんて。
いや、こんなことを考えてはいけない。私はまだ戦闘中なのだ。
 現にもう三週間も前から、この森の周りを敵兵がうろつくようになっていた。私を探しているのだろう。
これはよくない状況だった。敵軍がこちらに部隊を割いてきたということは、それだけ帝都の状況が敵側に傾いているということだ。それとも、少なくとも敵の一部隊をこちらに引きつけていると考えるべきなのだろうか。
この森に潜伏している戦力が明らかになっていないからこそ、敵にプレッシャーを与えている可能性もある。だとすれば、軽々しく動いて一人だと知られてしまった時点でその圧力は失われる。
「お姉ちゃん、どうしたらいいと思う……?」
――あなたは脱出しなさい! これは命令ですっ!
 鮮明に記憶に残っている、お姉ちゃんの最後の声を思い出す。
この先に、具体的な命令はなにもない。自分で考えて自分で決めなければならない。
この森を出て敵と戦うべきか、まだ耐えるべきなのか。
 私はその結論を出せず、巡回に来る敵部隊への対応を決めあぐねていた。
 そして今日――この森に潜伏し帝都の監視を始めてから二カ月以上が経過した革新世紀(E・A)七二年二月二七日にも敵部隊の巡回があった。
「敵部隊を確認」
 木の上の監視ポイントから周辺の様子を探っていた私は、森に近づいてくる敵部隊を発見した。
 ヘルメットと防弾ベストをつけた兵士が八人、逆V字の隊形でこちらに近づいてくる。私は木の葉に紛れるように身を隠し、スコープで敵の装備を確認した。
「……どういうこと?」
 敵部隊の装備を確かめた私は首を傾げた。
 この三週間、森の周りを巡回していた敵兵はいずれも突撃銃(アサルトライフル)などを装備していた。だが、今日の部隊は視認できる限り、銃火器は自動拳銃(オートピストル)しか装備していない。
「戦闘をするつもりではないということ? それとも、よほど甘く見られているの?」
 敵は私を、戦闘能力皆無の敗残兵とでも思っているのだろうか。
 だとすれば、それが思い違いであることを教える必要がある。幸いこの森の地形は把握済みだし、下草や蔓を利用した原始的なトラップも仕掛けてある。『SR43――アーバレスト』は必要ない。敵部隊が踏み込んでくれば、『МP四八――ケルベロス』だけでも各個撃破する自信はあった。
 私は肉眼で視認できる距離まで敵が近付いてきたところで『アーバレスト』を下ろし、ホルスターに収めた『ケルベロス』のグリップに触れた。
 さあ来い。そんなふざけた装備で来たことを後悔させてやる。
 だが、敵は森に踏み込んでくることはなく、森から五十メートルほど離れたところで立ち止まった。
「森に潜伏しているバラトルム兵に告げる!」
 隊列の先頭に立っていた兵士が叫んだ。
「どうか冷静になって、よく聞いてほしい。ヴァレオンでの戦闘はすでに終結し、君たちのリーダー、ガエン総統もすでに倒れている。これ以上の戦闘継続は無意味だ。武装を解除して出てきてほしい。絶対に危害は加えない、身の安全は保障する。投降してくれ」
「ガエン総統が戦死された?」
 投降を呼びかけられる屈辱以上に、それは許し難い一言だった。
 偉大なる聖帝閣下が貴様たちを相手に膝をつくはずがない。投降を呼びかけるためだか知らないが、もう少しマシなウソをつくべきだ。
 忌々しい。たかが一歩兵が聖帝閣下の死を騙るなど、万死に値する無礼だ。
 私は怒りにまかせて『アーバレスト』を構えた。照準が狂っているだろうがもう構わない。とにかくあの無礼者に一発、銃弾をお見舞いしなければ気が済まない。
 敵の頭部をスコープの十字線の中心に捉えて、発砲。銃弾は敵兵の耳元を掠めて、背後の地面に着弾した。敵兵が飛び上がり、他の兵士が慌てて散開する。
「よく考えてくれ! 戦闘は終わっている」
 苦し紛れのその叫びはもう無視して木から下り、私は森の奥へと身を隠した。
「戦闘が終わった? そんなわけがないのよ」
 ここにまだ戦っているバラトルムの兵がいる。
私がいる限り、戦争は終わらないのだ。

 ◇

 翌日も敵が来た。また八人、軽装であることも同じだった。
「性懲りもなく、また投降を呼びかけに来たの?」
 私は昨日とは別の監視ポイントから、敵部隊の様子を見ていた。昨日は外してしまったが、あれでおおよそのズレは把握できた。胴を狙うなら、今日はきっと当てられる。
私はいつでも撃てるように敵兵に照準を合わせたまま、じっと敵部隊の様子を観察していた。
敵の人数分の弾はないが構わない。不審があれば、私はいつでも引き金を引く。
今日がその時だというのなら、一人でも多くの敵を道連れにするだけのこと。
「聞こえるか? 今日は君に(・・)救援物資を持ってきた! もちろん受け取りに来てくれとは言わない。置いて行くから、我々がこの場を離れ、安全だと確信できたら回収してほしい」
 ――救援物資?
 私は耳を疑った。
 敵に物資を差し出すなどあり得ない。罠か? 物資を餌におびき寄せて、私を狙い撃つつもりなのか。
馬鹿げてる。ふざけてる。こんなつまらない作戦、子供だって引っ掛かるはずがない。
「ここに置いて行く。箱の中身は食料と飲料水だ。誓って、発信器や盗聴器、爆発物などは仕掛けていない。その他にも薬や衛生用品、必要なものがあるなら提供する用意がある。我々の望みは戦闘の停止、それだけだ」
 一方的にそう伝えると、本当に箱だけを残して部隊は後退して行った。
 一つの箱だけが、ぽつんと残されている。
 敵の言い分を信じるなら中身は食料と飲料水らしいが、とても信じられない。罠に決まっている。箱を開けるか、あるいは開けずとも、私が近づけば爆発するように仕掛けがしてあるはずだ。
 気にする必要はない。あんなもの放って置けばいい。
 それよりも気かがりなのは、敵兵の言葉。
 物資は私宛だと、あの兵士ははっきり言った。敵はこの森に潜伏しているのが私一人だと知っているということだ。
 ヴァレオンの状況に変化が見えない中、敵部隊が二日連続で投降を呼びかけに来たことも気がかりだ。聖帝閣下を中心とした部隊が抵抗を続けている状況での動きとは思えない。
 悔しいが、帝都の陥落は事実だろう。
 帝都ヴァレオンは敵の支配下に落ちたのだ。
 帝都防衛作戦に参加していた『魔法強化兵部隊(レクスマギナ)』の仲間たちはどうなっただろう? 聖帝閣下は帝都を離脱されたのか?
帝都が陥落し友軍が後退したとなると、合流も難しくなってくる。
 私はどうすればいいのだろう? この命の使い道として最善の行動はなんなのだろう。いっそのこと、明日も敵部隊が投降を呼びかけに来るならばそこに突撃して華々しく散ろうか。
 つい、そんなことも考える。
 情報がない。考える材料がない。私一人が世界から取り残されているような感覚に気ばかりが焦るが、動けない。
 私はどうすることもできず、帝都と敵が残していった物資を監視し続けた。
 暗くなっても夜になっても、箱はただそこにあり続け、なにも起こらない。
「あ」
 月が夜空を飾る頃、匂いを嗅ぎつけたのか、二匹の野犬が敵の置いて行った箱を食い破って中身をあさり始めた。
 野犬が中身をむさぼり始めても爆発などは起きない。
「……本当に、ただ物資を提供しただけ?」
 私は訝りながら木の上から下りて、周囲を警戒しながら敵が置いて行った箱に近づいて行く。
 二匹の野犬は、私の存在に気がつくと逃げて行った。
 箱の中を覗く。
 中には缶入りの飲料水と、パンやチーズが入っていた。どれも、バラトルムの国内で以前から流通している物ばかりで、量もたっぷりとあった。日持ちのするものも多いし、私一人なら節約すれば一カ月は保ちそうな量だ。念のため中を確認するが、発信器の類は見当たらない。
私はその箱を抱え、尾行を警戒しながら夜陰に包まれた森の中に戻った。敵からの施しであることが不満ではあるが、久しぶりのまともな食べ物だ。
「敵の物でも食べ物は食べ物。気にするなリュミエイラ」
 私は拠点にしている樹洞のところに帰り着くと、自分にそう言い聞かせ、持ち帰った箱からパンを取り出してかぶりついた。
 飲み込むようにパンを一つ食べた後、私は改めて箱の中を確かめる。提供された食料にはパンやチーズの他に、干し肉やビスケット、キャンディーなどもあった。
 私は干し肉を一切れとキャンディー二粒、野犬に荒らされてしまった物だけを取り出し、箱を閉めた。
 悔しい限りだが、これがあればかなり助かる。
 それが、正直なところだった。
「――! 誰?」
当面の食糧を確保しほっとしたのもつかの間、不意に、近くの茂みからがさりと物音。私はホルスターの『ケルベロス』を抜き、物音を立てた茂みに向けた。
やはり罠? 敵につけられていたのか?
来るなら一人のはずがない。何人? すでに囲まれてしまったか?
 私は立ち上がり、油断なく茂みに銃口を向けたまま少しずつ近づいて行く。
「そこにいるのはわかっているのよ、出てきなさい」
 いつでも撃てるように意識を集中しながら、一歩ずつ、茂みに近づいて行く。
「……」
 汗が背筋を伝い落ちる。
「出てきなさい、早く」
 いっそ茂みに数発撃ち込んでしまうかと思った瞬間、がさり、と茂みから子ぎつねが姿を見せた。
「……はぁ」
 敵ではなかった。私は自然と止めていた息を吐いて『ケルベロス』を下ろした。元の場所に戻り、樹洞のふちに腰掛ける。
「なに? お前、一人なの?」
 子ぎつねは人間(私)を見ても逃げず、じっと、こちらを見ていた。食べ物の匂いを嗅ぎつけてきたのかもしれない。
「……今回だけだよ」
 私は野犬に齧られていたパンを子ぎつねの足元に投げてやった。すると子ぎつねが途端に駆け寄って、無心に食べ始める。
「『甘い甘―いケーキが一つ』」
 私はキャンディーを口の中にころがすと、マーガティの詩を口ずさむ。
「『ケーキの上にはイチゴが一つ、チョコのおウチと女の子。
甘いはおいしい、甘いはうれしい。
さあ、このケーキを私と食べてくれる人はどこ?』」
キャンディーの甘さを味わっていると、私がやったパンを食べ終わってしまったのか、子ぎつねがもうないのかと言いたげな顔でこちらを見ていた。
「……しょうがないな、ほら」
 私は一度閉めた箱からもう一つパンを取り出すと、半分に千切って子ぎつねに差し出した。子ぎつねは恐る恐る近づいてくると、私の手からパンをくわえ取り、一度、「そっちの半分は?」と言いたげな目で私を見た。
「そんなにワガママ言わない。これは私の」
 と言うと、言葉が通じたわけでもないだろうが、子ぎつねは私に背を向けて夜の森の中に消えていった。
私はキャンディーを食べ終えてから、子ぎつねとはんぶんこにしたパンを一人で食べた。
「『さあ、このケーキを私と食べてくれる人はどこ?』か……」
 マーガティの詩の一節を呟いて、私はくすりと笑った。
 



2 戦争の痕(あと)


 革新世紀(E・A)七二年三月九日。
朝からの雨で畑仕事が休みになった日、リッカはルーベルと二人で自室にいて、一つのベッドの上で身を寄せ合っていた。
「今日は特にすることはないから好きにしてていいってマレアさんが言ってましたけど、ルーはなにかしたいこととかありますか?」
「ううん、リッカお姉ちゃんといられたらそれでいい」
「そうですか。わたしもですよ」
「ルーと一緒?」
「一緒ですね」
 実際、二人の部屋には遊び道具や本などの娯楽はなにもない。
以前であれば作戦行動時以外は訓練や銃器の手入れ、各種装備の確認作業などがあり、休息時以外はほぼ常に何かすべきことがある状況だった。退屈を感じる暇などなく、娯楽に触れる機会などそもそもなかった。
だから、こういう手すきの時間があると、かえってどうしていいかわからず、こうして部屋でじっとして時間を過ごしてしまう。
「雨の音、静かですね」
「うん……」
リッカはしばらくの間、ルーベルと二人で屋根や窓を叩く雨の音を聞いていた。
 リッカたちの部屋の扉がノックされたのは正午過ぎ。
「のんびりしているところ、ごめんなさいね。私よ」
 二人の部屋を訪れたのはマレアだった。
「はい、なにかご用ですか?」
「これからみんなでお菓子作りをするんだけど、よかったら一緒にどうかしら?」
「お菓子作り……ですか?」
「ええ、みんなでアップルパイを作るって。ルーちゃん、リンゴは好き?」
「……」
 ルーベルはベッドの上で俯いたまま、答えない。それが答えだった。
「……そう、いいのよ。もちろん無理強いはしないわ。どのみち私は買い出しに行かないといけないし」
「それならわたし、お手伝いします。ルー、いいですよね?」
「うん、いいよ」
「いいの? こんなお天気だし、ルーちゃん一人になっちゃうけど」
「大丈夫ですよ。ね、ルー?」
「うん、一人でも平気だから」
「そう。じゃあお買い物のお手伝い、お願いしようかしら」
「はい。じゃあ少し行ってきますね、ルー」
 リッカはルーベルの柔らかなブロンドをひと撫ですると、部屋着を着替えて、マレアとともに部屋を出た。


「道も建物も、きれいになりましたね」
「そうね。みんなが毎日、一生懸命お仕事をしてくれているおかげね」
 リッカがスターリアに来てから一カ月。人々の暮らしは日に日に変わっていた。
 毎日十分な量の飲料水や食料が支給され、ひび割れていた道路の舗装や壊れていた建物の修復や撤去が進んだ。燃料や電力の不足で停止していた工場は外国の企業が入り、少しずつだが再稼働が始まっている。
発電所や送電網の整備など、大掛かりな支援事業も現地のバラトルム人を雇用して行われているというのだから、『世界平和条約機構(W・P・U)』がこの街――ひいてはバラトルム(この国)の人々にもたらしたものは果てしなく大きい。
「大きな建物ができるんですね」
 食料品店に向かう途中で、リッカは建設途中の大きな建物を見つけた。この街に来た時にはなかった建物だ。
「あれはこの街の水道事業の拠点になる水道局よ。もっとも浄水設備の稼働もこれからだし水道の整備はまだまだ先の話だけど」
「すごいですね。帝都から離れた街にも水道なんて」
「水道整備は『世界平和条約機構(W・P・U)』の支援の中心だもの。『世界平和条約機構』の支援が入って水道整備がされなかった国はないのよ」
「みんなが暮らしやすくなっていくんですよね?」
「もちろんよ」
「……」
 リッカは傘を傾けて、雨に煙る街並みを眺めた。外国企業の看板をつけた大きな工場が、煙突から煙を吐いている。
 外国企業の工場など、ガエン政権が国土を支配していた時代にはありえなかっただろう。
「あれは精肉工場かしらね。他にも食品加工や缶詰の工場が動き始めているわ。鉄道網の整備計画もあるし、いずれはこの街で作った食品や缶詰がよその町や国で売られる日が来るかもしれないわね」
 どんどん便利になって、遠くと繋がって、広がっていく。
 ――それが幸せなんでしょうか?
 リッカにとって大切なものは、手の届くところか、決して手の届かないところにしかない。会ったこともなければ話したこともない、そんな相手しかいない街と繋がることにどんな意味があるのかはよくわからない。
 ただ、よくわからないまま、ものすごく大きな力が街を、国を、どんどん変えてしまっていくことには、漠然とだが不安を感じる。
 一番辛いことは、戦争は、もう終わったはずなのに。
 ――みんな。そちらからは、今、こっちはどんなふうに見えてますか? これから素敵な世界になる、そんなふうに見えていますか?
 リッカは雨粒を落とす空を見上げた。


 小麦粉や卵、野菜、缶詰、ドライフルーツなどをひと抱えほど買い込んで施設へ戻ったのは午後三時頃。中に入ると、リンゴとパイ生地の焼ける甘く香ばしい匂いが漂っていた。
「あら、いい匂い。もう出来上がってるのかしら?」
 キッチンから漂う甘い匂いにマレアが顔をほころばせた。おいしそうな匂いに、リッカもつい空腹を覚える。
「リッカさん、買ってきた物をしまったらルーちゃんを部屋から呼んで来てもらえるかしら? みんなでお茶にしましょう」
「はい」
 リッカは買ってきた食料をしまうと、ルーベルを呼びに部屋に戻る。
「おかえり、リッカお姉ちゃん」
「ただいまです。ルー、一人で寂しくなかったですか?」
「平気だよ」
 と言いつつ、リッカが近寄ると、ルーベルの小さな手がリッカの服を掴んだ。この甘えん坊は昔からだ。
「ルー、アップルパイができたみたいですよ、食べに行きましょう」
「……」
 ルーベルはリッカの服を掴んだまま、子が親の顔色を窺うような上目づかいの視線を向けた。
「大丈夫ですよ、ちゃんとルーの分もありますから」
「ホントに?」
「もちろんですよ。マレアさんも待ってますから、行きましょう」
 リッカはルーベルのほっぺたをつんつんとつついて笑うと、肩を貸して、ベッドの上から車椅子に移動させた。
 車椅子を押して食堂に向かうとすでに全員がそろっていて、何人かはすでに食べ始めていた。
 テーブルの上には焼きたてのアップルパイが並んでいる。
「なんだ、喰う時は来るのかよ」
「エルヴィンっ!」
 悪態をついたエルヴィンをマレアが叱る。エルヴィンはいかにも反省のなさそうな態度で肩をすくめると、そっぽを向いて食べ始める。
「ごめんなさいね。これ、ルーちゃんとリッカさんの分よ」
「上手にできてますね。すごくおいしそうです」
きれいな三角形にカットされたアップルパイを見て、前に『魔法強化兵部隊(レクスマギナ)』の隊員たちと作った時の散々な出来のアップルパイを思い出し、リッカは、こういうものは当たり前に作れるものなのだろうかと考えた。
リンゴが生だ外が焦げてると散々に文句を言いながら、それでも一番たくさん食べたのはサーシャだった。あの無類の甘い物好きにとっては、胃袋に入りさえすれば、出来不出来など関係なかったのかもしれない。
 ――サーシャがここにいたら大喜びで食べそうですね。
 その様子が目に浮かび、リッカはつい、口元に笑みを浮かべた。
「ルー、どうですか?」
「甘くておいしい」
 ルーベルは小さな口でちょこちょこと食べている。
「みんなでお菓子作るの楽しかったよ」
「今度はルーベルちゃんも一緒にやろうよ」
「でも、ルー、邪魔になっちゃうから……」
「そんなことないよ」
「みんなでやった方が楽しいよ」
 施設の少女たちの多くは同性ということもあってか、ルーベルに同情的だ。どちらかと言えば、ルーベルが一方的に心を開いていない状態に近い。
「けっ」
 毛嫌いしているルーベルを包む和気あいあいとした雰囲気に嫌気がさしたのか、エルヴィンが音を立ててフォークを置くと、リモコンを掴んでテレビをつけた。
《――今年一月に保護された、フォレア村虐殺事件の唯一の生き残りの少年ですが、本人の強い希望により、現在国外移送に向けた手続きが進められています。『世界平和条約機構(W・P・U)』は現在少年の受け入れが可能な国の候補を――》
 ――フォレア村の生き残り。
 自分たちが参加した作戦で多くの命が奪われたフォレア村。そこに生き残りがいたと初めて耳にし、リッカはテレビに目を向けた。
《事件は革新世紀(E・A)七一年十月四日、バラトルム東国境付近のフォレア村で起こりました。当時、ガエン総統を最高司令官としていたバラトルム軍が突如としてフォレア村を襲撃。非戦闘員ばかりの村の住人たちを無差別に殺傷するという凄惨な事件は世界に大きな衝撃を与え、『平和維持軍(サルバトール)』の介入のきっかけと――》
 凄惨な虐殺事件。
 報道番組は、非戦闘員の民間人が無差別に殺害された事件の悲惨さを伝える。が、リッカはその内容に釈然としない気持ちになった。
 フォレア村の全員が非戦闘員だったわけではない。あの村が『不滅の盾(アイアス)』の反政府活動を支援していたことは事実で、フォレア村での作戦で『魔法強化兵部隊(レクスマギナ)』は反撃を受け死傷者を出した。
 だが、報道から伝わってくるものは虐殺の痛みばかり。正しいことをしたわけではないとわかっていてもなお、リッカはフォレア村の作戦で死んだ仲間の命を汚されたような、ひどく嫌な気分になった。
『不滅の盾(アイアス)』だってテロ行為に民間人を巻き込んでいたのに、そのことに触れず、報道がガエン政権の非道ばかりをクローズアップすることには違和感がある。少なくとも、『不滅の盾』のテロ行為がなければ、リッカたちが家族を失うことはなかったのだから。
『不滅の盾(アイアス)』の行動がきっかけとなってこの国が変わったことは事実だから、それで許されるのか。『世界平和条約機構(W・P・U)』が『不滅の盾』の行動を正しいと認めたからか。
 なら、『世界平和条約機構(W・P・U)』が本当に正しいかどうかは、誰が認めるのだろう?
 ――こんなことを考えるわたしは、間違っているのでしょうか?
 その『世界平和条約機構(W・P・U)』が管理する施設に保護されている身でこんなことを考えてしまうのは、まだ、心のどこかにバラトルムから受けた支配が残っているからなのだろうかと、リッカは自分の心に少しだけ不安を抱く。
 ぎゅっ。
 報道番組に気を取られていたリッカの腕をルーベルが掴んだ。
「ルー? ルー、大丈夫ですか?」
 ルーベルは顔を蒼白にして、目を見開いてテレビ画面を見ていた。手や唇がかすかに震えている。食べようとして落としたのか、膝の上にアップルパイが落ちていた。
 様子がおかしいと思った次の瞬間、ルーベルが嘔吐した。テーブルを囲んでいた子供たちが悲鳴を上げ、慌てて立ち上がる。
「ルー! ルーベルっ! 大丈夫ですか?」
 ルーベルは小さな背中を何度も何度も痙攣させて、食べたばかりのアップルパイを胃液とともに吐き出した。
リッカはその背中をさすってやりながら、自分のうかつさを呪った。
 フォレア村攻撃作戦の時、本隊とは別行動をしていたリッカの相手は『不滅の盾(アイアス)』の構成員で、非戦闘員は一人もいなかった。
だが、本隊に参加していたルーベルは、フォレア村攻撃作戦で多くの非戦闘員を殺害している。それも、遠距離狙撃という一方的なやり方で。
 虐殺の痛み、悲惨さを伝える報道が、ルーベルの心になんの痛みも与えないはずがなかった。
「ルー、ルー、ごめんなさい。しっかりしてください、ルー」
 リッカは懸命にルーベルの背中をさすった。やがて嘔吐が収まると、口の周りを軽く拭いてから、急いでルーベルを部屋に連れ戻した。
「休んでいて下さい。すぐに戻ってきますからね」
 ルーベルをベッドに寝かせると、すぐにルーベルが吐いた吐瀉物を片づけに戻る。
 リッカが食道に戻るとすでにそこは閑散としていて、マレアが一人で片づけをしていた。
「すみません、わたしもやります」
「こっちはいいから、一緒にいてあげた方がいいんじゃないかしら。ルーちゃんの様子は?」
「もう落ち着きましたから、大丈夫だと思います。やらせて下さい」
「そう、じゃあお願いするわ」
 リッカはマレアの横に並んで、床に飛び散った吐瀉物を片づけて行く。
「……ごめんなさいね」
「どうして謝るんですか?」
「みんな元気にしてくれているからつい忘れがちになってしまうのだけど、ここにいる子はみんな戦争で心に傷を負っている。報道がその傷に触れる可能性があることに、保護司としてもっと気を配っておくべきだったわ。保護司失格ね」
「そんなこと……わたしもルーもとってもよくしてもらってます。感謝してますから」
「ありがと、リッカさん」
 そこで会話が途切れ、あとは無言で、床をきれいに片づけた。
「それでは、わたしは部屋に戻ります」
「ええ。ルーちゃんの様子、見ててあげてね」
「はい」
 掃除道具を片づけてゴミを捨て、リッカは部屋に戻った。
「ルー、具合はどうですか?」
 部屋に入って、そっと声をかけてみるが、ベッドからの返事はない。もう寝ているのかとベッドを覗いてみると、なぜか無人だった。
「ルー?」
 ベッドにはいないが、車椅子はそのままだし、あの身体ではそう遠くへはいけないだろう。なにより今のルーベルが一人で部屋を出るとは考えにくい。
室内にいるとすれば……。
「ルー、もしかしてここですか?」
 ベッドの下を覗き込むと、ルーベルはそこにいた。覗き込むリッカに背を向ける格好で床に寝そべっている。
「ルー、床で寝ると身体が痛くなっちゃいますよ?」
 声をかけながら、リッカもベッドの下に潜り込んでいく。
「ルー?」
 ルーベルは答えない。眠っていた。
 リッカは後ろからルーベルの身体を抱いた。小さくて温かいルーベルの身体を抱いて後ろから顔を覗き込むと、目尻には涙の粒が光っている。
「大丈夫ですよ、ルーのせいじゃありません」
 リッカは涙を拭いて、何度も何度も、眠るルーベルの髪を撫でた。
「もう平気です。怖いことは全部、終わったんですから」
ルーベルが少しでも安心できるように、ルーベルの眠りが少しでも安らかになるように、リッカは声をかけ続けた。


 翌日、ルーベルはベッドの下からまったく動こうとせず、リッカの説得でなんとかベッドに横になった。
 昼を過ぎてもおやつの時間を過ぎてもルーベルはベッドから起きようとしないが、昨日のことを思えば無理に起こすこともできなかった。
 だから、今日は晴天に恵まれたがリッカは畑の手伝いには出ずに、ルーベルと一緒に部屋で過ごしていた。一つのベッドに並んで寝転んで、無言で壁を向いているルーベルの背中を温める。
「ルー、わたしはちゃんといますからね」
 返事がなくても気にしないで、リッカは時々、声をかける。自分がいることを、自分がルーベルを大切に思っていることを、少しでも伝えたかった。
「二人で一緒にいると温かいですよね」
 一つのベッドで、一枚のシーツで、身を寄せ合うようにして眠っていると、営巣地(コロニー)で暮らしていた頃のことを思い出す。営巣地はとても寒かったから少しでも温かく眠れるように、夜はよく寄り添い合っていた。
今はもう二人きりになってしまった『家族』との過去を思い出しながら浅い眠りとおぼろげな目覚めの間をさまよっていたリッカは、不意に響いたノックの音に呼び起された。もそもそとベッドを抜け、ドアを開ける。
「ごめんなさい、眠っていたところを起こしてしまったかしら?」
 見るからに寝起きの顔のリッカに微笑みを向けたのはマレアだった。
「いえ、大丈夫です」
「そう? ルーちゃんも起きてるかしら?」
「ルーベルは……たぶん半分くらいは起きてると思いますけど」
「実はね、前から余った布を使ってルーちゃんの服を作っていたのだけど、今日やっと出来上がったのよ。少しは気分が変わるかと思って持ってきたんだけど……」
 マレアは手にしていた白い服を広げて見せた。
純白の、リッカの目にはドレスのように見えるワンピースだった。
「これ、ルーに作って下さったんですか?」
 腰からふわりと広がったスカートと袖口にはたっぷりとフリルがあしらわれ、襟元にはルーベルの瞳と同じ空色のリボンが飾られている。
 どう見ても、余った材料で作った物には見えなかった。
「ええ。サイズは合ってると思うんだけど、着てくれるかしら?」
「きっと喜ぶと思います。ありがとうございます」
 リッカは中に戻ると、ベッドで寝ているルーベルに声をかけた。
「ルー、ルー。マレアさんがルーのために服を作ってくれましたよ。とってもきれいで可愛いです。着てみませんか?」
 優しく肩を揺すると、ずっと眠っていたルーベルが目を開けた。
「……服?」
 ようやくルーベルが身体を起こした。まだ涙の跡が残る顔で、眠そうに目をこする。
「入っていいかしら?」
「あ、はい、どうぞ」
 リッカが廊下で待っていたマレアを部屋に招き入れると、マレアは早速、手作りの服をルーベルの肩に当てた。
「ああ、よかった、サイズはよさそう。ね、着てみてくれないかしら?」
「……」
 ルーベルはぼんやりした瞳で、自分の肩にあてがわれた服を見下ろした。
「ルー、着替えてみましょう」
「……うん」
 ルーベルはこくりと頷くと、部屋着のボタンを一つずつ外し始めた。リッカは足が不自由なルーベルに手を貸して着替えを手伝う。
「これは上からかぶって着ればいいんですか?」
「ええ、そうよ」
「ルーベル、手を上げて下さい」
 部屋着を脱がせたルーベルに、服をかぶせるようにして着せる。袖を通して、肩と腰の位置を合わせてから、背中のチャックを閉める。
「はい、出来ましたよ」
「さあルーちゃん、鏡の前に」
 リッカが後ろから支えてルーベルを立たせると、クローゼットの扉についている鏡の前にゆっくりと移動した。
「……」
 ルーベルは鏡に映る自分の姿を、まるで、見知らぬ他人を見るような顔で見た。
「よく似合ってますよ、ルー。とっても可愛いです。お姫様みたいですね」
 姉バカ的発言をしたリッカが後ろから抱きついて、ルーベルの淡いオレンジのブロンドに頬を寄せた。
「ルーちゃん、どう? 気に入ってくれたかしら?」
「……うん、ありが、とう」
 ルーベルは顔を伏せてマレアに礼を言うと、うっすらと――本当にうっすらとだが、微笑んだ。

 ◇

 革新世紀(E・A)七二年三月十四日。
今日も、リッカはマレアに連れられて買い出しの手伝いをしていた。
「なんだか便利に使っているみたいでごめんなさいね。いつもありがとう、助かるわ」
「いえ、お役に立てて嬉しいです」
リッカが両手に抱えた荷物の多くはパンや小麦粉などの食材だ。アップルパイを作って以来、施設の子供たちはお菓子作りが気に入ったようで週に一度はお菓子作りをするようになっていた。日々の買い物にその材料や裁縫に使う布や綿などが加わったことで、今日の買い物は大荷物になっている。
「それにしてもリッカさん、いつも思うんだけど力持ちね。そんなに頑張ってくれなくてもいいのよ? 私ももう少し持つわ」
「いえ、大丈夫です」
 実際、両腕で荷物を抱えてはいるが重さとしては何ら問題なかった。魔法強化兵(マギナ)として肉体を強化されたリッカにとっては軽々と持てる重量だ。
「そう? じゃあ疲れたらいつでも言ってね」
 二人は日に日にインフラの整備が進んでいく街を歩き、児童福祉施設へ戻った。
「……?」
 玄関を開けるより早く、リッカの優れた聴覚が室内の声を聞き取る。
「リッカさん、どうかしたの?」
 荷物を抱えながらドアノブに手を伸ばしたまま動きを止めたリッカを見てマレアが首をかしげるが、屋内から聞こえた声に意識を集中していたリッカはそんなマレアには気がつかず、屋内から聞こえてくる声に耳をすませた。
 ――大体お前はよぉ。
 ――いつもいつも辛気臭ぇんだよ。
 ――んだよ、黙ってないで何とか言えよ。
 剣呑な少年の声がエルヴィンといつも一緒にいる少年たちのものであると気がついた瞬間、リッカは手にしていた荷物をかなぐり捨てるように手放し、玄関を開けた。
「なにしてるんですかっ」
 玄関に入ってすぐのところには誰もいない。リッカは声が聞こえたとおぼしき方向――キッチンへ急ぐ。
「なんだよ弱虫、文句があるなら言ってみろよ」
「言えねーなら泣いてみろよ、いつもみたいに。ゲロ吐いて、お姉ちゃん助けてって泣いてみろよ」
 普段の言動を考えれば、エルヴィンたちの攻撃的な言葉が誰に向けられたものかは聞かずとも明白だった。
「なんだよ、泣けっつってんだろ!」
「ルーっ!」
 リッカがキッチンに駆け込んだのと、エルヴィンが痺れを切らせて声を荒げたのはほぼ同時。
そしてキッチンに駆け込んだリッカが目にしたのは、ルーベルの髪を掴んでいるエルヴィンの姿だった。
「なにしてるんですか! ルーになにするんです!」
 リッカは二人に駆け寄ると、ルーベルの髪を掴んでいるエルヴィンの手首を掴み、半ば強引に、ねじり上げるようにしてその手を離させた。
「いって! なにするんだよ!」
 エルヴィンが手首の痛みに顔をしかめながら、手首を掴むリッカの手を振りほどく。
「なにするんだじゃないです! 答えて下さい、なにをしていたんですか?」
「いいだろ、別に何だって」
「よくありませんっ!」
 ここに来て初めて、リッカは声を荒げた。それは怒鳴りつけられた少年が思わずびくりと竦むほどの怒声だった。
「ルーベルに乱暴をしないで下さい」
「なんだよ」
 エルヴィンは不服そうにしながら、それでも、それ以上はなにも言えずに黙り込んだ。
「ルー、大丈夫ですか?」
「うん、平気」
 ルーベルは平然としている。
「……本当に辛いのは、こんなことじゃないから」
「こんなことぉ?」
 自分を軽んじられたと感じたのか、エルヴィンの声に怒気が混じる。だが少年に睨みつけられてもルーベルは何事もないように、
「違うの?」
「こいつ――っ!」
 まったく動じないルーベルに苛立つエルヴィンが、思わず拳を振り上げる。
「エルヴィンっ! なにをしているの?」
 リッカに続いてキッチンに駆け込んできたマレアが事態に気付き、静止の声を上げる。だが、リッカは思わず、マレアの声を制するように彼女に手のひらを向けていた。
 拳を振り上げる姿を見てもなお、しっかりとエルヴィンを見返すルーベルの目を見て、大丈夫だと、ルーベルは負けないと、そう感じた。
「ルーは、こんなことじゃ泣かない」
 ルーベルは青空の色をした瞳に強い光を宿し、はっきりと言った。そこにはエルヴィンには屈しないという明確な意思が表れている。
エルヴィンの目には、いつもなにかに怯えるように顔を伏せていたルーベルとはまるで別人のように見えただろう。
 だが、リッカは知っている。
 エルヴィンの目には弱虫に見えたかもしれない少女だが、ルーベルは決して弱くなどない。ただ傷ついているだけだ。
幼い少年の恫喝になど屈しない。
「~っ!」
 自分の言葉でも、暴力でもルーベルを屈服させることができないと知り、その歯がゆさにエルヴィンが唇を噛む。
「じゃあ、何なんだよ、お前」
 エルヴィンの目に涙がにじむ。
「お前、いつも泣いてて、足だって動かなくて、つらそうなのに」
 声にも、嗚咽が混じり始めた。
「それで、なんでそんなことを言う……言えるんだよ」
「もしかして、本当に泣きたいのは君の方じゃないですか?」
 エルヴィンの、それこそ辛そうな――今にも泣き出しそうな表情を見て、リッカはそう感じた。ルーベルに辛く当たるのも、そうすることで今にも壊れそうな自分の心を守ろうとしているのではないかと、そう思った。
「誰かを傷つけて、自分は強いから平気だって、そんなふうに思いたいんじゃないですか?」
「違う、違うっ! 俺はそんな弱虫なんかじゃない!」
 エルヴィンは必死になって否定するが、リッカの言葉はおそらく、エルヴィンの本心を射抜いている。
「……そうやって強い振りをして誰かを傷つけても、自分が楽になれるわけじゃないです。それで癒えるものは、なにもないんです」
 エルヴィンが俯いて、拳を震わせた。
「……じゃあ、じゃあどうしろって言うんだよ? 姉ちゃん、痛そうだったのに、爆弾で両足吹っ飛ばされて、すげえ痛そうだったのに、俺、なにも出来なくて、逃げるしか出来なくて……」
 エルヴィンが涙をこぼす。背中を震わせて、喉を震わせて、胸のうちに秘めていた痛みを吐きだした。
 リッカはエルヴィンが吐露した痛みに、その過去に、一瞬、言葉を失った。
エルヴィンの姉が迎えたという最期が、クラリーと重なって感じられた。あるいはそれがエルヴィンの心のどこかで、今のルーベルと重なって見えているのかもしれない。
「両足……を、ですか」
「そうだよ、そばにいた人がいきなり死体になってて、姉ちゃんの両足がなくなってて、俺、怖くなって逃げ出して、それで……」
 エルヴィンは両手で顔を覆うと、いよいよ声を上げて泣き出した。
「絶対、姉ちゃん俺のこと恨んでる。自分を置いて、見捨てて逃げたって、そんなふうに思ってる、そうに決まってるんだ」
「そんなはずないです」
 リッカは断言した。
 リッカ自身、死者に対する後ろめたさは感じていた。
生き延びてしまったことに対する罪悪感があった。
それでも、断言した。
 クラリー、ラトナ、サーシャ、シグ、『魔法強化兵部隊(レクスマギナ)』の仲間たち。
生きることのできなかった仲間たちが、今、リッカが生きていることを恨みに思うとは、リッカには考えられなかった。
 生き延びたことを罪として、自分で自分の心を押し潰しながら生きることを望んでいるとは、思えなかった。
「君がお姉さんを大切に思っているように、お姉さんも君を大切に思っていたはずです。だから、無事でよかった、逃げられてよかった、そんなふうに思ってくれているはずです」
 ――そうですよね、クラリー。
「……だからもう、自分で自分を傷つけるのは、やめて下さい」
「俺は……っ、姉ちゃん……」
 エルヴィンがその場に泣き崩れる。
「……」
 ルーベルがどうしたらいいのかわからないという顔でリッカを見上げ、袖を掴んだ。
「……マレアさん、彼をお願いできますか?」
自分の言葉がエルヴィンの心に触れたらしいと思いつつ、だが、意地っ張りな少年である。泣いているところを女の子に見られたくはないだろうと思った。
「ええ、わかったわ。ルーちゃんは平気なの?」
「はい」
 ルーベルの代わりに答えると、リッカはルーベルの車椅子を押して、部屋に戻った。
「今日は頑張りましたね、ルー。偉かったですよ」
 ルーベルをベッドに寝かせてから、リッカはルーベルの髪を撫でてやった。
「ルー、偉かったの?」
「はい、男の子に負けませんでした。ルーは強い子ですね」
「うん」
「ほら、マーヤも褒めてくれてますよ」
 リッカがクマのぬいぐる(マーヤ)みをルーベルの顔に押しつけると、ルーベルがくすぐったそうな、嬉しそうな、そんな顔をした。
 



3 リュミエイラの作戦記録③ 転進


 革新世紀(E・A)七二年三月二十日。
「今日も変化なし、か」
 敵からの食糧提供があってから三週間。食料事情が改善した以外には、私の状況はなにも変わっていなかった。
 提供された食料はまだまだ残っている。水はもともと水場を確保してあったから手をつけていないが、いつか役に立つ日が来ると思う。
 ただ、食料提供を受けてからと言うもの、一つ、困っていることがあった。
「お前、また来たの?」
 パンをやった子ぎつねが私のところに来れば餌が手に入ると学習してしまったのか、私の周りをうろつくようになってしまっていた。
 私は身を隠しているのだ。下手に近くで鳴き声でも上げられたらたまらない。だが、いくら追い払っても、また子ぎつねはやってくる。
「……今日だけだからね」
 結局、子ぎつねの物欲しそうな顔に負けて、食べ物を少しだけ分けてやる。
 私は孤独だった。
 相手が人間でなくても、言葉がわからなくても、話しかける相手が欲しかったのかもしれない。
私は帝都の監視を続けていたが、状況の変化を感じることはなかった。
 二日続けて投降を呼びかけにきた敵部隊は、食料を置いて行った数日後にまた来たが、その時は自分たちが置いて行った物を確認しただけで去っていった。
 それ以来、状況の変化を感じられないまま、時間だけが経過していく。
 私はたった一人、世界から切り離されたようにこの森に居続けている。
 一人と知られ、大した装備もないと知られ、敵の施しで胃袋を満たす日々を過ごしていると、自分がなにをしているかもわからなくなってくる。
私の行動がなにかの役にたっているのか。今ここにいることに意味があるのか。それすらもよくわからなくなってくる。
本当に、私はなにをしているんだろう。
帝都の監視を続けながら、いらいらと爪を噛む。
情報から切り離された時間が長くなり、思考力や判断力が低下しているのかもしれない。
 ただ、変化のない帝都の監視を続けることに限界を感じていることは事実だった。
 もう帝都は主戦場ではない。
 それはすでに、私の中での結論になり始めている。次の行動を考え始める頃合いなのかもしれない。この森を離れ、バラトルムの各地で反撃の機をうかがっている友軍との合流を目指すべきか。
たぶん、それが正しい。
 でも、仲間とともに死力を尽くして戦ったヴァレオンを一人で離れることにも抵抗があった。ヴァレオンで聖帝様のために戦って、大勢の仲間が命を落とした。その命に背くようなことはことだけはしたくない。
 私は国家への貢献と仲間たちへの想いとの間で揺れていた。
 もう私の周辺には何事もなく、ちょこちょこと現れる子ぎつねが食料を少しずつ持ち去っていくだけ。
 子ぎつねは毎日昼過ぎに現れると、食事の有無にかかわらず、夕方近くまで私の周りをうろついて回る。
 そのリズムを把握してからは、子ぎつねに付きまとわれないようにその時間を避けて監視行動をするようにしていたのだけど――
「……今日は来ないのかな?」
 監視行動などの間につきまとわれると困るから来るなら早く来てもらいたいのだけど、その日は、昼過ぎになっても餌をねだる子ぎつねはやってこなかった。
 仕方なくいつもの行動を開始してすぐ、私は巡回ルートの途中で子ぎつねを見つけた。
「お前……どうしたの……?」
 子ぎつねはポロ布のような姿になって地面に倒れていた。自分よりも大きななにかに襲われたようで、手足や皮を食いちぎられて血まみれになっている。
 食べ物の匂いをさせていたのが悪かったのか、それとも運が悪かったのか。
子ぎつねは、もう、息をしていなかった。
「……」
 だからなんだということではない。私には役割がある。使命がある。いつも通り、果たすべき任をこなさなければいけない。もう監視行動に行く時間は過ぎている。
 そうわかっていても、私の足は、子ぎつねの亡骸の前から動けなかった。
 涙が落ちた。
 どうして、死んでしまうんだろう。
 こんなに悲しいのに。
「痛かったろうね、ごめんね」
 私は跪いて、子ぎつねの亡骸を抱き上げた。そのまま、私が寝床にしている樹洞のところに戻る。樹の根元に穴を掘って、子ぎつねの亡骸を弔った。
 子ぎつねを埋めた場所に、墓標の代わりに『アーバレスト』を立てかける頃には、私の心は決まっていた。
 ――ここを離れよう。
私にはもう、これ以上の潜伏に意味を見出すこと出来なかった。
 ずっと愛用してきた狙撃銃――『SR43――アーバレスト』。
聖帝様からお預かりした銃器を遺棄することには罪悪感を覚えたが、この先の行動を考えればこれは邪魔になる。いつかまた必要になる日が来たら、その時はここに取りにくればいい。
 そして私は、持てるだけの食料と水、『ケルベロス』だけを持って、潜伏していた森を後にした。

<第三部に続く>